なぜアスペルガー医師達は、障害児の安楽死計画を受け入れた?|答えは時代背景

オーストリアとナチス

アスペルガー医師にまつわる議論

ナチス政権下でのハンス・アスペルガー医師の振舞いは、多くの識者間でいまだに議論が繰り広げられています。

「自閉症児をナチスの安楽死計画から守った」という立場から、一方では「何人もの自分の患者を、自分の意志でシュピーゲルグルント(安楽死施設)へ移送した」などです。詳しくはこちらのページにて。

両者とも事実ですが、彼自身は当時のことをあまり語らずに亡くなられ、戦時中の資料もあまり残っていないため、今でもどちらの立場に強い想いがあったのかは分かりません。

アスペルガー医師の生い立ち~亡くなるまでの詳細は下記ページにまとめています。

安楽死を受け入れた理由

アスペルガー医師達が安楽死計画を受け入れた理由は、1900年代のオーストリアの時代背景にあります。

安楽死計画が行われていた時代、アスペルガー医師の国であるオーストリアは、ナチス・ドイツ統治下にありました。ご存知の通り、ナチスは優生政策をもとに多くの非道な政策を繰り広げていました。障害を持つ子・人の安楽死計画もそのうちの一つでした。

そのため、アスペルガー医師だけでなく、彼の周りのほとんどのオーストリアの医師達は、ナチスによる障害児(者)安楽死計画を受け入れ、それに加担しました。その理由はそのような時代だったと言わざるを得ません。

その時代は、第一次世界大戦、第二次世界大戦、ナチス、ホロコースト、障害者殺害(安楽死)など、現代では考えられないくらい激動の時代でした。

オーストリアとナチス:時代背景

オーストリア-ハンガリー帝国時代

オーストリア-ハンガリー帝国

アスペルガー医師が生まれた1906年、オーストリアはオーストリア-ハンガリー帝国時代でした。

その帝国は当時ヨーロッパの主要国の1つであり、また、多民族連邦国家でした。

オーストリア-ハンガリー帝国

そのため公用語はドイツ語、ハンガリー語をメインに9種類もあり、政治内では最も論争の多い問題のひとつにもなっていました。

そんな帝国では1900年ごろ、人口約5200万人中、約5%の200万人のユダヤ人がおり、ユダヤ人の黄金時代でした。

参考:wikipedia “Austria-Hungary" 

1914年:第一次世界大戦 勃発

1914年に第一次世界大戦が始まりました。

第1次世界大戦の解説図
画像はHUFFPOSTより

最初は3ヶ月程度で終わると思われた戦争は、実に4年にもわたり、オーストリアは経験したことのない食糧難、住宅難に陥りました。

画像は世界雑学ノートより

ユダヤ人難民が集中

そんなオーストリア・ウィーンには、開戦直後から情報と物資を求め(現在のウクライナ辺りから)生活力のない大量のユダヤ人難民が集中して流入しました。その後1916年、戦後にも新たな流入があり、ユダヤ人は戦後、数百万人の難民と膨れあがりました。

ウィーンに難民が集中した理由は、ウィーンは200万人以上の大都市で、もともと移住していた上流ユダヤ人が多く、親せきや取引先が多かったためです。また、宗教上の食料品禁忌規定を守れるためでもありました。

しかし飢餓地獄と化したオーストリアでは上流ユダヤ人も徐々に援助が出来なくなっていきました。

もともとキリスト教徒の多いウィーン市民に根付いている(10世紀よりも前からある)反ユダヤ感情(ユダヤ人はイエス・キリストの磔刑に関与したと考えているとから始まる)も相まって、ユダヤ難民に対する待遇は酷いものでした。

1918年:敗戦により帝国崩壊

1918年、第一次世界大戦に敗戦し、オーストリア-ハンガリー帝国は崩壊して国土は分裂しました。

かつてハンガリーから得られていた食料やチェコにあった工業地帯も石炭資源も失ったオーストリアは、基盤産業がなくなり、深刻な状況に陥っていきました。

中央ヨーロッパの政治的均衡は崩壊し、極度の貧困状態に陥り、そのことで戦後長らく反ユダヤ主義も続きました。

これらにより、ヒトラーを熱烈に歓迎することになり、オーストリアもナチスの道へと進んでいきます。

この頃:ドイツ語圏のヨーロッパでは精神分析が盛んだった

1922年のフロイト
1922年のフロイト(下段左端)画像はwikipediaより

当時、ドイツ語圏のヨーロッパでは精神分析が盛んでした。アメリカでは精神分析がまだあまり行われていない時代のことです。

詳しくは「【アスペルガー医師の時代背景】精神分析が盛んだったドイツ語圏のヨーロッパ」ページをご覧ください。

オーストリアがナチス・ドイツと統合(1938年)

ナチス党旗を振りナチス式敬礼でドイツ軍を迎えるオーストリア国民 画像は奈津子の徒然雑記帳「44第二次世界大戦」より

かつて支配民族であったドイツ人が多数を占めるオーストリアは、同じ民族国家であるヒトラー率いるドイツ軍を歓迎しました。

ホロコーストの生き残りであるマルコ・ファインゴールドさんは、極度の貧困状態からオーストリア人の80%がヒトラーを歓迎するようになったと語っています。参考:AFP BBNews「104歳のホロコースト生存者、アンシュルスについて語る」より

ホロコーストの生き残りマルコ・ファインゴールドさん
マルコ・ファインゴールドさん

当初オーストリアを支配下に置く予定がなかったヒトラーも、熱烈な歓迎を受けて両国統合を決意しました。

オーストリア医学界もナチス精神医学化された

第三帝国(ナチス・ドイツが自称した国名。神聖ローマ帝国、ドイツ帝国に次ぐ「第の国」という意味)に組み込まれたオーストリアは、政治的権限がドイツに移行し、ナチス指揮のもとドイツ同様(今では疑似科学とされる)優生学を基にした政策(優先政策)がとられていきました。

一九三八年には、 ナチスドイツがオーストリアを併合し、オーストリアの医学界がナチスドイツ支持に染まり、ドイツ語圏の精神医学界もナチス精神医学の支持者のもとで強制的同質化された

光文社出版「アスペルガー医師とナチス 発達障害の一つの起源」(2019) エディス・シェファー (著), 山田 美明 (翻訳)

オーストリアでも障害者の安楽死が実行された

それによりオーストリアでも、障害をもつ子供の「安楽死」という名の虐待の末の殺害、大人の障害者への安楽死(T4作戦)やユダヤ人迫害(ホロコースト)が行われることになったのです。

アスペルガー医師も、そこに移送させる=その子が殺害されると分かっていたうえで、何人かの障害児をオーストリアのシュピーゲルグルントという施設へ移送させていました。

1939年:第二次世界大戦 勃発

ナチス・ドイツはポーランド侵攻により、ヨーロッパにおける第二次世界大戦を引き起こしました。

第二次世界大戦を引き起こしたヒトラー

第二次世界大戦中、ハンス・アスペルガー医師も37歳の時に戦医として従軍しています。

1945年:敗戦、ナチス・ドイツからの解放

ナチス・ドイツが第二次世界大戦に敗戦するまで、優生政策は続きました

1945年戦況が悪化しヒトラーが自殺。ナチ党の滅亡によりオーストリアはドイツの支配から解放、今度はアメリカ・イギリス・フランス・ソ連の管理下におかれることで優生政策も終わりを告げました。

1945年:戦後、安楽死を先導してきた医師たちの処刑

ナチス・ドイツによる前例のない非人道的な残虐行為を行ってきた関係者たちは、上記4ヶ国によるニュルンベルク裁判、アメリカ軍によるニュルンベルク継続裁判で裁かれていきました。

優生政策においては小児科医や精神科医児が重要な役割を果たしており、安楽死を指揮命令していたヒトラー直属の医師などは医者裁判で有罪となり処刑(または自殺)されました。

処刑された安楽死政策の中心人物カール・ブラント医師 画像はWikipediaより

アスペルガー医師の上司であるハンバーガー医師などは重い処分を受けましたが、先述の通り、アスペルガー医師はナチ党(NSDAP)員ではなかったため処分は免れました。

さいごに

がナチス政権下で、アスペルガー医師をはじめ、オーストリアの医師達が関与した障害者(児)の大量殺害理由は、ヒトラー率いるナチス政権下の優先政策のためでした。

歴史情報サイトではないので概要でしたが、アスペルガー医師の怒涛の時代背景の一部が垣間見えました。

そのせいで一部の専門家はアスペルガー医師の名前が付いた「アスペルガー症候群」を使用することに批判的になっている理由も分かりました。

本日はこの辺で。読んで下さってありがとうございました!