【シュピーゲルグルント】とは?むかしの自閉症児の過酷な運命

2020年9月12日

Spiegelgrundとは

【シュピーゲルグルントとは?

ナチス時代の 治癒教育クリニック

【シュピーゲルグルント(Am Spiegelgrundとは、ナチス時代、障害児行動に問題のある子ども(障害がなくても)達が収容されていた青少年福祉施設、治癒教育クリニックです。

そこは、1940年~1945年の5年間だけ存在しました。ナチスによる「T4作戦:大人の安楽死」が始まった直後からです。

収容された子ども達は、医師や看護師たちに日常的に虐待を受けていました。【シュピーゲルグルントで生き延びた方のインタビューや記事も多く公開されています。詳しくは、下記ページで詳しく説明しています。この施設を理解する上で必要な情報ですので、是非あわせてご覧ください。

秘密裏に 安楽死 が行われていた

【シュピーゲルグルントの施設の一部(パビリオン15と17)に、ナチスが秘密裏に「子どもの安楽死」を行う「児童部門(Kinderfachabteilung)」が設置されていました。

シュピーゲルグルントの病室の一例
画像はEducation Newsより

そこで、教育が困難とみなされた子どもが、少なくとも789人殺害されました。

「児童部門」が設置されていたパビリオン15と17については、次の章の中で詳しく説明いたします。

どんな所にあった?

オーストリアのウィーン

【シュピーゲルグルントは、1907年に建設された精神科療養所および特別養護老人ホーム「シュタインホフ精神病院」の敷地内にありました。

そこは、アスペルガー症候群の命名由来にもなったハンス・アスペルガー医師の国であるオーストリアの首都、ウィーンです。

オーストリアは、1938年からナチス・ドイツを歓迎・統合の道を選んでいました。政治的権限がドイツに移行していたため、オーストリアでも多くの「安楽死」という大量殺害が実行されたのです。

詳しくは「なぜアスペルガー医師やオーストリアの医師達は、ナチスによる障害児(者)安楽死計画を受け入れたのか」ページをご覧ください。

豪華なパビリオンスタイルの 精神病院内 に存在

【シュピーゲルグルントが入っていた「シュタインホフ精神病院」は、当時精神分析が盛んだったヨーロッパの中でも、最も近代的で最大の精神科クリニックでした。

◇参考◇【アスペルガー医師の時代背景】精神分析が盛んだったドイツ語圏のヨーロッパ

昔のシュタインホフ精神病院/オットーワグナー病院
昔シュタインホフ精神病院と呼ばれた現在のオットーワグナー病院 画像はKunst und Kultur in Wienより

ウィーン郊外のなだらかな傾斜の森の中にあり、1.4キロ平方メートル(東京ドーム約30個分)という広大な敷地内に、豪華な60棟ものパビリオン(建物)の複合施設から成り立ち、現在もオットーワグナー病院(Otto-Wagner-Spital)という名前で存在しています。

オットーワグナー病院(2020年)
現在のオットーワグナー病院入り口 画像はWikipedia Otto-Wagner-Spital より

当時は、病院として34棟、他には患者のための劇場や病院付属の教会などが存在していました。

昔のシュタインホフ精神病院
ナチス時代のシュタインホフ精神病院。患者のための劇場(右側)や教会。

新進芸術家の中心人物だったオットー・ワグナー(Otto Wagner)氏をはじめ、オーストリアを代表する建築家らの設計により、3年もかけて建設された病院でした。

シュタインホフ教会
シュタインホフ教会 画像はTrip Plannerより

「シュタインホフ精神病院」には、常に多くの精神障害者が入居し、治療・療養している病院でした。

参考:Wikipedia Steinhof

【シュピーゲルグルントは、このような建物の、パビリオン1、3、5、7、9、11、13、15、17の合計640床で運用されていました。

運用の開始は、1940年7月に2/3の患者がハルトハイム城の安楽死施設へ移送され、ガス室で殺害(T4作戦:ナチスによる「大人の安楽死」計画)が行われ、多くのパビリオン(13棟)が空室になった直後からでした。

パビリオン15,17に児童部門

先述の通り、パビリオン15と17には児童部門が置かれ、ドイツ・ベルリンにある安楽死計画の司令部連絡を取り合い、そこで子どもたちの運命が決められました

ベルリンからの命令が「治療」であった場合、その子どもにとってゆっくりとした苦痛な死を意味しました。「治療(Behandlung)」は殺害のコードネームだったのです。

パビリオン15の入口
パビリオン15の入り口 画像はWikipedia Am Spiegelgrund より
パビリオン15
パビリオン15の外観
以下、パビリオンの画像はバーモント大学社会学部准教授、Lutz Kaelber氏のサイト内 “Am Spiegelgrund“(StädtischeJugendfürsorgeanstalt “Am Spiegelgrund" Wien)より
パビリオン17
パビリオン17の外観

児童部門は、ナチス・ドイツの統治下の地域に合計30ヶ所以上存在しました。

指定場所は、精神施設や病院、療養所や老人ホームでした。

【シュピーゲルグルントは、下記の病院の次、つまり、2番目に設けられた施設でした。

【参考】最初の児童部門

はじめて児童部門が設けられたのは、ドイツのブランデンブルク州にあるAsklepios Fachklinikum Brandenburgというパビリオンスタイルの州最大の病院でした。その病院には、精神病院と療養所、特別養護老人ホーム、教会や墓地などが備わっていました。

そこでは、1938年5月から1944年8月までに入院した4,000人の子供と青年のうち、約1,270人が殺害されました。

さらにその児童部門では、他の児童部門の責任者になる医師に対して、訓練が行われました。

そこは現在、ブランデンブルク専門病院(FACHKLINIKUM BRANDENBURG)という精神神経科病院として存在しています。

ブランデンブルク専門病院
ブランデンブルク専門病院 画像はmappde.comより

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どんな子どもたちが【シュピーゲルグルントへ入れられたの?

【シュピーゲルグルントへ移送されたのは、最初のうちは0歳~3歳までの乳幼児、次第に対象が広がり0歳~18歳までの障害児や行動に問題のある子どもたちでした。子どもの障害の程度や内容は、非常に幅広いものでした。

移送のためのリスト化された厳密で明確な基準はなかったと言われています。大きな基準は、社会的な労働力になり得るかどうかという経済的なことでした。

具体的には、身体障害児や精神障害児、今でいう自閉スペクトラム症児や知的障害児も【シュピーゲルグルントへ移送されました。また、アルコール依存症の親を持つ子も、当時は遺伝性の疾患とみなされ移送されました。さらには学習が少々遅い程度の子、行動上の問題がある程度の子、会話も成り立ち【シュピーゲルグルントのスタッフから好感を持たれるような子までも含まれていました。

それ以外にも、ナチスへの反抗分子や共産党主義の子どももそこに入れられました。

The children included those selected by T4 categories, as well as the children of resistance fighters and communists.

Alliance for Human Research Protection “Am Spiegelgrund” in Vienna“Special Children’s Ward” 1940–1945, November 18, 2014
↑ 和訳概要

子供には、T4カテゴリで選択された子供たちと、抵抗闘士や共産主義者の子供たちが含まれていました。

The “special children’s ward" was housed in pavilions 15 and 17. The reformatory was housed in pavilion 18.

Am Spiegelgrund" (Städtische Jugendfürsorgeanstalt “Am Spiegelgrund” Wien), Last updated: 29 August 2015
↑ 和訳概要

「特別児童病棟」はパビリオン15と17に収容されていました。改革派はパビリオン18に収容されていました。

子どもたちはどうやって集められたの?

2/3は公立の施設から

約2/3の子どもは児童養護施設やウィーン大学病院の小児科、他の小児病院から移送されてきました。

ナチスは1938年の春頃から「安楽死」計画を立てており、1939年8月18日、ナチス・ドイツ統治下の産院や小児病院などの医師や助産師に、目的を告げず、下記に該当する(当初は)3歳までの子どもの情報を登録フォームに記入し報告するようにという通達を出しました。

  1. 知的障害とダウン症候群(特に失明および聴覚障害に関連する症例)
  2. 小頭症(Mikrocephalie
  3. 重度または進行性水頭症(Hydrocephalus
  4. すべての種類の奇形、特に手足の欠如、頭と背骨の重度の裂け目など
  5. 乳児脳性麻痺を含む麻痺

子どもたちは、その情報を基に大規模に集められました。

また、【シュピーゲルグルント】の医師が、移送させるべき子どもを見つけるため、また責任者らに指導するために、いろいろな病院や施設にも出向きました。

【シュピーゲルグルント】での最初の医学責任者であり、アスペルガー医師とウィーン大学小児クリニック治癒教育部門で働いていた同僚であった神経疾患の専門家のアーウィン・ジュケリウス(Erwin Jekelius)は下記のように市に報告しています。

Hiezu möchte ich bemerken, daß […] gemäß meinem Auftrage, die Sonderanstalten für psychisch abwegige Kinder und Jugendliche zu besuchen und die Pfleglinge dort zu begutachten, eine ganze Reihe von derartigen Untersuchungen durch mich stattgefunden haben. So wurde von mir auch die Anstalt Biedermannsdorf mehrere Male aufgesucht und die nicht dorthin gehörigen Kinder und Jugendlichen zur Verlegung in die für sie zuständigen Sonderanstalten beantragt […]. Montag, den 14. ds. beabsichtige ich nach Tatzenbach hinauszufahren, um […] die dortigen Kranken zu begutachten. […] Montag den 21. ds. ist die Begutachtung von Zöglingen in Eggenburg geplant.

アーウィン・ジュケリウス
↑ 和訳概要

このため私はそれをしたいと気づきました[…] 私の注文によると、精神的に逸脱した子供や若者のための特別施設を訪問し、そこで移送させる子を見立てるために、私はそのような多くの調査を行ってきました。ビーダーマンスドルフにも数回訪れました。そしてそこに属していない子供や若者が彼らに責任がある特別な機関に移されるように要求します[…]。 14日の月曜日には、私はタッツェンバッハに出かけるつもりです[…]そこで病気を診察します。[…]21日の月曜日には、エッゲンブルクで生徒の鑑定を計画しています。

アーウィン・ジュケリウス
アスペルガー医師の同僚のアーウィン・ジュケリウス医師(Erwin Jekelius)1931年から1936年までウィーン大学小児クリニックの治癒教育部門で働いた。1933年からNSDAPのメンバーとなる。1938年以来神経疾患の専門家となり、1940年7月24日から1941年までシュピーゲルグルントの医学責任者を務める。画像はBMCより

(ちなみにジュケリウス医師は、【シュピーゲルグルントでの仕事の他に、10月からT4作戦のコーディネーターになり、計数千人に対してガス処刑される患者を決定していました。参考:Wien Geschichte Wiki Am Spiegelgrund" 2020.4.23 / Wikipedia “Erwin Jekelius

1/3は実家から

そして1/3の子どもは家から連れてこられました。 1940年7月24日~1941年7月23日までの1年間で合計1,583人の子どもたちがウィーン改革派の家から移送されたというデータがあります。

für die meisten Eltern aber ein Ort der Hoffnung.Weil sie glaubten, ihren Kindern würde dort geholfen. Kindern, die kleinwüchsig waren oder Probleme mit dem Sprechen hatten, an der typischen Kriegskrankheit Rachitis litten, sich schlecht konzentrieren konnten oder zu spät laufen lernten.

Mehr als eine Tarnbezeichnung für eine Tötungsanstalt war das Wort „Kinderfachabteilung“ aber nicht.

WeLT “Die Ahnenforschung, die im Nazi-Heim endete" Carolin George 2015.9.29
↑ 和訳概要

しかし、ほとんどの親にとって、彼らの子供がそこで助けられると信じていたので、希望の場所でした。 身長が低い、または話すのに問題がある、典型的な戦争病のくる病に苦しんでいる、集中力が足りない、または歩くのが遅すぎることを学んだ子供。しかし、「児童部門」という言葉は、殺害センターの表紙にすぎませんでした。

移送が親に知らされないことも

当時はドイツやオーストリアは第二次世界大戦の最中で、一般市民だった父親が兵士として出兵し、中には母親が仕事と子供たちの世話の両立ができず、幼い子を児童養護施設などに預けることも少なくありませんでした。

ドイツの母親アンナ・ローレンツは、当時2歳だった末っ子ディーターだけを児童養護施設に預けて定期的に息子に会いに行っていましたが、1944年9月の初めに、そこにいた子どもたちがいなくなっていたと述べています。行先も分からず、必死に探しましたが、1944年12月に少しだけ発達が遅かったディーターは、9月には健康だったにもかかわらず12月に「新鮮な発作を伴う髄膜炎(Hirnhautentzündung mit frischem Schub)」という死因で亡くなっていたことが後に分かりました。

強制的に

中にはわが子を【シュピーゲルグルントへ移送されることを必死に抵抗した親もいましたが、当時ナチス・ドイツ統治下では、そのような子どもを手元に置いておくことは叶いませんでした。強制的措置は当初は控えられていましたが、1941年9月から、両親が子供の入院に同意することを断固として拒否した場合、監護権を剥奪される可能性もありました。

Anny Wödl, a Viennese nurse, had no doubt that the transfer of her son Alfred to Spiegelgrund, enforced in 1940 despite her resolute resistance, would mean his death

BMC : Hans Asperger, National Socialism, and “race hygiene” in Nazi-era Vienna
↑ 和訳概要

ウィーンの看護婦であるアニーヴェドルは、断固たる抵抗にもかかわらず、1940年に強制された息子のアルフレッドのシュピーゲルグルントへの移送が彼の死を意味することに疑いの余地はありませんでした

参考:Kindermord in der Ostmark: Kindereuthanasie im Nationalsozialismus 1938-1945" (2004) Karl Cervik, BMC : Hans Asperger, National Socialism, and “race hygiene” in Nazi-era Vienna, Wikipedia Kinder-Euthanasie

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【シュピーゲルグルントでは何が行われていたの?

上記のような子どもが集められ、【シュピーゲルグルントではいったい何が行われたのでしょうか?

表向きには

ナチスによる安楽死計画は市民にも秘密裏に計画・実行されており、表向きに【シュピーゲルグルント】は子どもたちを指導し、後の科学研究のために得られた経験を記録する役割を果たす、という機関でした。

1942年から閉鎖される1945年まで【シュピーゲルグルント】の教育ディレクターを務めていた心理学者であり教育者であったハンス・クレネク(Hans Krenek)は、1942年6月16日に下記のように述べています。

„Die Fürsorgeanstalt „Am Spiegelgrund“ hat die Aufgabe, alle psychisch auffallenden Kinder und Jugendlichen vom Säuglingsalter bis zum Erreichen der Volljährigkeit nach genauester Beobachtung und Prüfung ihrer psychischen und physischen Kenntnisse und Fähigkeiten nach erfolgter Begutachtung in die für sie entsprechende Anstalt bzw. Pflegestelle einzuweisen. Außerdem sollen die hiebei gewonnenen Erfahrungen für spätere wissenschaftliche Arbeiten gesammelt werden. […] Alle Durchzugsgruppen, im besonderen aber die Säuglings- und Kleinkinderabteilung, dienen in erster Linie Beobachtungs- und Begutachtungszwecken und haben außerdem die Aufgabe, sowohl in medizinisch-psychologischer als auch in erbbiologischer und psychiatrischer Hinsicht das gesamte zur Verfügung stehende Zöglingsmaterial zu erfassen und einer späteren wissenschaftlichen Verarbeitung zuzuführen.“

Böhlau, “Zur Geschichte der NS-Euthanasie in Wien: Von der Zwangssterilisation zur Ermordung" (2002) Eberhard Gabriel, Wolfgang Neugebauer Böhlau, Pp.2002 – 422
↑ 和訳概要

「アムシュピーゲルグルンド」福祉施設は、適切な施設または養護施設に、心理的および身体的知識と能力を注意深く観察および検査した後、すべての精神的に異常な子供と青年に、乳幼児から成人の年齢まで指導する役割を果たします。さらに、得られた経験は、後の科学研究のために収集されます。[…]すべての分遣隊グループ、特に乳幼児部門では、主に観察と評価を本来の目的を務め、また、医学的心理学的および遺伝的生物学的および精神医学的観点から、利用可能なすべての生徒の資料を記録し、後の科学的処理のために提出するという任務もあります。

実際には

実際には子どもたちは毎日虐待され、医学実験台にされ、適切な医療や教育がされることはありませんでした。

また子どもたちの医学的情報が登録フォームに入力され、先述の通り、児童部門からベルリンの安楽死計画の司令部へ送られ、安楽死させられる子どもたちがふるいにかけられました。

ベルリンの安楽死計画の司令部では

ベルリンの司令部では、第三帝国委員会から任命されたハンス・ハインツェ(Hans Heinze)、エルンスト・ウェンツラー(Ernst Wentzler)、ヴェルナー・カテル(Werner Catel)という3人の精神科医と小児科医が、登録フォームを査読し、子どもたちの運命を判断していました。

彼らは、登録フォームの内容をさらに検査したり、実際に患者を診たりすることはありませんでした。そして、子どもが「安楽死」のケースであると判断した場合は「+」を入力し、そうでない場合は「-」を、明確な決定ができ​​ない場合は「観察(Beobachtung)」の「B」を入力、報告しました。

子どもたちの運命は、親に知らされず

両親は施設の本質と子どもたちを待ち受ける運命についてだまされていました。それでも一部の一般医や関連施設の管理者などの間では噂は回っており、もちろんアスペルガー医師も子どもたちを待ち受ける運命を知っていたとされています。

どうしてそんなことしたの?

一言でいえばそういう時代だったと言えますが…。

もともとナチス・ドイツでは1934年1月1日から発効された「遺伝病子孫予防法(Gesetz zur Verhütung erbkranken Nachwuchses)(1933年7月14日に成立)」に基づき、遺伝性疾患・アルコール依存症の「不妊化」を行っていた背景もありました。

詳しくはアスペルガー医師の時代背景の解説として「ナチス・ドイツや日本にもあった「人間の血統改良」を目指す【優生学】とは?」ページで詳しく説明していますので、そちらをご覧ください。

殺害された子は安楽死だった?

【シュピーゲルグルントや他のナチスの児童部門で行われた「子どもの安楽死」とは、私たちが想像する「安楽死」とはかけ離れています。

そもそもナチスが使用していた「安楽死」という言葉は、障害者の殺害プログラムを婉曲(えんきょく)的に意味していたのです。

もちろん子どもたちに行われた残虐な行為は、世界や一般市民からの批判を免れるため秘密裏に行われ、カルテの改ざんもされていました。また、対外的なイメージを保つためにも、子どもたちを科学的利用するためにも、「安楽死」が決定された子どももすぐには殺害されませんでした。

「安楽死」が決定した子どもの両親には、最初、その子の健康状態が悪くなったという手紙を送り、後に、お子さんは亡くなったが、生涯施設でのケアが必要だったということを慰めとしてくださいという旨の手紙を送りました。

シュピーゲルグルントからの手紙
1943年にシュピーゲルグルントの責任者であったエルンスト・イリング(Ernst Illing)が、安楽死させた子どもの両親へ送った手紙 画像はWikipediaより
↑ 和訳概要

ホファー夫妻 1943年2月6日 ウィーン
残念なことに、1943年1月22日にお子さんが突然肺炎で亡くなったことをお知らせします。その日に、ここからお子さんのお母さん宛に電報が送られましたが、なぜそのメッセージが届かなかったのは分かりません。お子さんは精神的に深く、何も話さず、言語を理解していませんでした。それも悪くなる可能性があります。ここでの滞在中は何も進展しませんでした。お子さんは少ないケアで生活できる人になることは決してなく、確実に永久に施設のケアを必要としていたでしょう。これは、子供が穏やかな死によって贖われるほうがよいという慰めとして使用してください。
E.イリング博士 上級医療評議会

先述のジュケリウス医師は、他医師へも指示し、毎月6〜10人の子供を殺めていました。

医師や看護師は泣く泣く手を下していたのか?

子どもたちに対してそんな酷いことをするなんて、医師や看護師たちは分たちの命を守るため、泣く泣くナチスの指示に従わなければならなかったのでしょうか?

それもまた違います。ヒトラーは、社会的生産性のない子どもたちの安楽死に賛成し、命令書にサインをしただけでした。

【シュピーゲルグルントで働く医師、看護師、生物学者もナチスであり、実際に子どもたちへの対応方法は医師や看護師たちが計画し実行していたのです。

While it is comforting to believe that Nazi physicians, nurses, and bioscientists were either incompetent, mad, or few in number, they were, in fact, the best in the world at the time, and the vast majority participated in the government program of “applied biology.” They were not coerced to behave as they did—they enthusiastically exploited widely accepted eugenic theories to design horrendous medical experiments, gas chambers and euthanasia programs, which ultimately led to mass murder in the concentration camps.

Czech H. “Human Subjects Research after the Holocaust" (2014) Rubenfeld S, Benedict S, editors. Springer, Cham. Pp. 109–25.
↑ 和訳概要

ナチスの医師、看護師、生物科学者は不適格か、気が狂っていたのか、または少数だったのか、と信じることは慰めになりますが、彼らは実際には、当時、世界最高であり、幅広い大多数の関係者が政府のプログラムである 「応用生物学」に携わっていました。 彼らは、振る舞いを強制されませんでした。彼らは、広く受け入れられていた優生学の理論を熱心に利用して、恐ろしい医学実験、ガス室、安楽死プログラムを設計し、最終的に強制収容所で大量殺人を引き起こしました。

多くの医師は、子どもたちを研究の機会として利用できると考えていました。子どもたちは、医学実験のモルモットにされたのです。

第二次世界大戦後、関与した医師は数名処刑されています。

上記の手紙を送った責任者のイリング医師も、致死性薬物および腰椎穿刺の投与、ならびに致死性薬物の導入または投与について、約200例で有罪判決を受け、戦争犯罪者として絞首刑にされました。しかし、罪に問われることのなかった医師らもたくさんいたことも事実です。

エルンスト・イリング
エルンスト・イリング

子どもの安楽死計画は、表向きには1年で中止

【シュピーゲルグルントで秘密裏に行われていた行為は、シュタインホフ精神病院前で行われた患者の親せきらの抗議により、一般市民にまで噂が広がり、他国でもその施設での殺害が知られるようになりました。

その結果、ナチスはT4作戦と子どもの安楽死殺害を認めざるを得なくなりました。

他国からの批判のみならず、カトリック教会による粘り強い批判を受け、1941年8月24日にヒトラーは口頭で安楽死計画の中止を口頭で命令しに公的中止となりました。

しかし、それは表向きに過ぎませんでした。

実際は、T4作戦のうち、自動車の排気ガスをホースで引いた安楽死施設のガス殺害(一酸化炭素中毒)がなくなっただけだったのです。

しかし、野生化した安楽死は終戦まで続いた

T4作戦中止後、精神病者の収容施設では、国からの統制を受けない形で医師・看護師により続行され増え続けていきました。これは「野生化した安楽死」と呼ばれています。

実際にT4作戦が行われた1940年から1941年に殺害された人数よりも、作戦終了から第二次世界大戦終了(1942年から1945年)まで安楽死させられた犠牲者の方が多くなっています。

ナチスも「遺伝的調査」を通じて子供や若者の殺害を指示しており、障害のある子どもたちの安楽死も1943年から本格化したと言われています。

【シュピーゲルグルントでも、記録されている789人の犠牲者のうち、19人は1940年に、94人は1941年、1942年には101に上昇し、ピークは274人が殺害された1943年でした。1944年には161人、戦争が終わった1945年には50人の子供たちが殺害されました。

参考:wikipedia「T4作戦」 / BMC : Hans Asperger, National Socialism, and “race hygiene” in Nazi-era Vienna

ナチス敗戦後、閉鎖された

1945年4月にヒトラーが自殺し、5月にナチスがイギリスやアメリカなどの連合国に無条件降伏を宣言し、優生政策も終わりを迎えました。

それに伴い、6月30日、【シュピーゲルグルントは閉鎖されました。

そして7月1日、スタッフ全員が「シュタインホフ精神病院」へ引き継がれました。

また、安楽死させられた子どもたちの脳は保管されており、【シュピーゲルグルントは閉鎖後も研究のため使用されていました。

オットーワグナー病院病理学部の地下にある記念室
オットーワグナー病院 病理学部の地下にある記念室 画像はDOW(http://de.doew.braintrust.at/popup.php?t=img&id=304)より

まとめ

今回は【シュピーゲルグルント】がどんな所なのかを見てきました。

今回はこの辺で。最後まで読んでくださってありがとうございました。