【シュピーゲルグルント】とは?昔の障害児の収容施設|秘密裏な安楽死

2020年9月12日

Spiegelgrundとは

シュピーゲルグルントとは?

シュピーゲルグルントの病室の一例
画像はEducation Newsより

ナチス時代の治癒教育クリニック

【シュピーゲルグルント(Am Spiegelgrundとは、ナチス時代、障害児や行動に問題のある子ども達が収容されていた青少年福祉施設、治癒教育クリニックです。

【参考資料】シュピーゲルグルントへの移送対象と基準

そこは1940年~1945年の5年間だけ存在しました。

シュピーゲルグルントは、多くの精神障害者(大人)が入居・治療・療養しているシュタインホフ精神病院の敷地内にありましたが、ナチスの「T4作戦」により1940年7月に2/3の患者がハルトハイム城の安楽死施設へ移送・殺害され、多くの病棟(パビリオン:建物)(13棟)が空室になった直後から運用が開始されました。

9棟のパビリオンの計640床で運用されていました。

表向きの役割

シュピーゲルグルントは表向きには子どもたちを指導し、後の科学研究のために得られた経験を記録する役割を果たすという機関でした。(→参考1

実際には

しかし実際には、収容された子どもたちは毎日虐待され、医学実験台にされ、適切な医療や教育がされることはありませんでした

子どもたちに行われた残虐な行為は、世界や一般市民からの批判を免れるため秘密裏に行われ、カルテの改ざんもされていました

シュピーゲルグルントでの日々の虐待内容や生活については、下記ページで詳しく説明しています。この施設を理解するためには、辛い内容ではありますが必要な情報ですので、是非あわせてご覧ください。

安楽死を行う部門が設置された施設

シュピーゲルグルントの施設の一部(パビリオン15と17)には、ナチスの指示により、児童部門という「子どもの安楽死」を行う部門も設置されていました。(→参考2

シュピーゲルグルントでは、教育が困難とみなされた子どもが、「安楽死」として少なくとも789人殺害されました。

安楽死については後述します。

設立理由は?

一言でいうとそういう時代だったということなのですが…。

もともとナチス・ドイツでは、ヒトラーの人種的理想の実現のため、1934年1月1日から発効された「遺伝病子孫予防法(Gesetz zur Verhütung erbkranken Nachwuchses)(1933年7月14日に成立)」に基づき、遺伝性疾患・アルコール依存症の「不妊化」を行っていた背景があります。

詳しくは「【優生学】とは?」ページで説明していますので、そちらをご覧ください。

子どもが移送される時の親は?

子どもたちの運命は、親に知らされず

保護者は、シュピーゲルグルントの本質と子どもたちに待ち受ける運命についてだまされていました。

そのため、ほとんどの親はシュピーゲルグルントで子どもを救ってくれるはずだと信じ、そこが希望の場所になっていたようです。(→参考3

それでも一部の一般医や関連施設の管理者などの間では噂は回っており、一部の精神科医においては子どもたちを待ち受ける運命を知っていたとされています。

移送が親に知らされないことも

当時はドイツやオーストリアは第二次世界大戦の最中で、一般市民だった父親が兵士として出兵し、中には母親が仕事と子供たちの世話の両立ができず、幼い子を児童養護施設などに預けることも少なくありませんでした。

ドイツの母親アンナ・ローレンツは、当時2歳だった末っ子ディーターだけを児童養護施設に預けて定期的に息子に会いに行っていましたが、1944年9月の初めに、そこにいた子どもたちがいなくなっていたと述べています。

行先も分からず、必死に探しましたが、1944年12月に少しだけ発達が遅かったディーターは、9月には健康だったにもかかわらず12月にカルテ上では「新鮮な発作を伴う髄膜炎(Hirnhautentzündung mit frischem Schub)」という死因で亡くなっていたことが後に分かりました。

強制的に

中にはそこへ移送される子の運命の噂を聞き、わが子の移送を必死に抵抗した親もいましたが、当時ナチス・ドイツ統治下では、そのような子どもを手元に置いておくことは叶いませんでした。

強制的措置は当初は控えられていましたが、1941年9月から、両親が子供の入院に同意することを断固として拒否した場合、監護権を剥奪される可能性もありました。

Anny Wödl, a Viennese nurse, had no doubt that the transfer of her son Alfred to Spiegelgrund, enforced in 1940 despite her resolute resistance, would mean his death

BMC : Hans Asperger, National Socialism, and “race hygiene” in Nazi-era Vienna
↑ 和訳概要

ウィーンの看護婦であるアニーヴェドルは、断固たる抵抗にもかかわらず、1940年に強制された息子のアルフレッドのシュピーゲルグルントへの移送が彼の死を意味することに疑いの余地はありませんでした

参考:Kindermord in der Ostmark: Kindereuthanasie im Nationalsozialismus 1938-1945" (2004) Karl Cervik, BMC : Hans Asperger, National Socialism, and “race hygiene” in Nazi-era Vienna, Wikipedia Kinder-Euthanasie

シュピーゲルグルントでの安楽死について

殺害された子は安楽死だった?

シュピーゲルグルントや他のナチスの児童部門で行われた「子どもの安楽死」とは、私たちが想像する「安楽死」とはかけ離れています

そもそもナチスが使用していた「安楽死」という言葉は、障害者の殺害プログラムを婉曲(えんきょく)的に意味していたのです。

「安楽死」の方法につては「ナチス時代【シュピーゲルグルント】子どもたちが受けていた虐待とは?」ページで詳しく説明しています。

親にも偽りの事後報告

「安楽死」が決定した子どもの両親には、最初、その子の健康状態が悪くなったという手紙を送り、後に、お子さんは亡くなったが、生涯施設でのケアが必要だったということを慰めとしてくださいという旨の手紙を送りました。

シュピーゲルグルントからの手紙
1943年にシュピーゲルグルントの責任者であったエルンスト・イリング(Ernst Illing)が、安楽死させた子どもの両親へ送った手紙 画像はWikipediaより
↑ 和訳概要

ホファー夫妻 1943年2月6日 ウィーン
残念なことに、1943年1月22日にお子さんが突然肺炎で亡くなったことをお知らせします。その日に、ここからお子さんのお母さん宛に電報が送られましたが、なぜそのメッセージが届かなかったのは分かりません。お子さんは精神的に深く、何も話さず、言語を理解していませんでした。それも悪くなる可能性があります。ここでの滞在中は何も進展しませんでした。お子さんは少ないケアで生活できる人になることは決してなく、確実に永久に施設のケアを必要としていたでしょう。これは、子供が穏やかな死によって贖われるほうがよいという慰めとして使用してください。
E.イリング博士 上級医療評議会

シュピーゲルグルントでの最初の医学責任者であり、神経疾患の専門家のアーウィン・ジュケリウス(Erwin Jekelius) は、他医師へも指示し、毎月6〜10人の子供を殺めていました。

医師や看護師は泣く泣く手を下していたのか?

子どもたちに対してそんな酷いことをするなんて、医師や看護師たちは分たちの命を守るため、泣く泣くナチスの指示に従わなければならなかったのでしょうか?

それもまた違います。ヒトラーは、社会的生産性のない子どもたちの安楽死に賛成し、命令書にサインをしただけでした。

シュピーゲルグルントで働く医師、看護師、生物学者もナチスであり、実際に子どもたちへの対応方法は医師や看護師たちが計画し実行していたのです。

While it is comforting to believe that Nazi physicians, nurses, and bioscientists were either incompetent, mad, or few in number, they were, in fact, the best in the world at the time, and the vast majority participated in the government program of “applied biology.” They were not coerced to behave as they did—they enthusiastically exploited widely accepted eugenic theories to design horrendous medical experiments, gas chambers and euthanasia programs, which ultimately led to mass murder in the concentration camps.

Czech H. “Human Subjects Research after the Holocaust" (2014) Rubenfeld S, Benedict S, editors. Springer, Cham. Pp. 109–25.
↑ 和訳概要

ナチスの医師、看護師、生物科学者は不適格か、気が狂っていたのか、または少数だったのか、と信じることは慰めになりますが、彼らは実際には、当時、世界最高であり、幅広い大多数の関係者が政府のプログラムである 「応用生物学」に携わっていました。 彼らは、振る舞いを強制されませんでした。彼らは、広く受け入れられていた優生学の理論を熱心に利用して、恐ろしい医学実験、ガス室、安楽死プログラムを設計し、最終的に強制収容所で大量殺人を引き起こしました。

多くの医師は、子どもたちを研究の機会として利用できると考えていました。

子どもたちは、医学実験のモルモットにされたのです。

子どもの安楽死計画は、表向きには1年で中止

シュピーゲルグルントで秘密裏に行われていた行為は、シュタインホフ精神病院前で行われた患者の親せきらの抗議により、一般市民にまで噂が広がり、他国でもその施設での殺害が知られるようになりました。

その結果、ナチスはT4作戦と子どもの安楽死殺害を認めざるを得なくなりました。

他国からの批判のみならず、カトリック教会による粘り強い批判を受け、1941年8月24日にヒトラーは口頭で安楽死計画の中止を口頭で命令しに公的中止となりました。

しかし、それは表向きに過ぎませんでした。

実際は、T4作戦のうち、自動車の排気ガスをホースで引いた安楽死施設のガス殺害(一酸化炭素中毒)がなくなっただけだったのです。

野生化した安楽死は終戦まで続いた

安楽死作戦の中止後、精神病者の収容施設では、国からの統制を受けない形で医師・看護師により続行され、むしろ増え続けていきました。これは「野生化した安楽死」と呼ばれています。

実際に安楽死作戦が行われた1940年から1941年に殺害された人数よりも、作戦終了から第二次世界大戦終了(1942年から1945年)まで安楽死させられた犠牲者の方が多くなっています。

ナチスも「遺伝的調査」を通じて子供や若者の殺害を指示しており、障害のある子どもたちの安楽死も1943年から本格化したと言われています。

シュピーゲルグルントでも、記録されている789人の犠牲者のうち、19人は1940年に、94人は1941年、1942年には101に上昇し、ピークは274人が殺害された1943年でした。1944年には161人、戦争が終わった1945年には50人の子供たちが殺害されました。

参考:wikipedia「T4作戦」 / BMC : Hans Asperger, National Socialism, and “race hygiene” in Nazi-era Vienna

ナチス敗戦後、閉鎖された

優生政策の終焉により

1945年4月にヒトラーが自殺し、5月にナチスがイギリスやアメリカなどの連合国に無条件降伏を宣言し、優生政策も終わりを迎えました。

それに伴い、6月30日、シュピーゲルグルントは閉鎖されました。

そして7月1日、スタッフ全員がシュタインホフ精神病院へ引き継がれました。

また、安楽死させられた子どもたちの脳は保管されており、シュピーゲルグルントは閉鎖後も研究のため使用されていました。

オットーワグナー病院病理学部の地下にある記念室
オットーワグナー病院 病理学部の地下にある記念室 画像はDOW(http://de.doew.braintrust.at/popup.php?t=img&id=304)より

安楽死に関与した医師らは?

安楽死に関与した医師は数名処刑されています。詳しくはこちらのページにて。

上記の手紙を送った責任者のイリング医師も、致死性薬物および腰椎穿刺の投与、ならびに致死性薬物の導入または投与について、約200例で有罪判決を受け、戦争犯罪者として絞首刑にされました。

エルンスト・イリング
エルンスト・イリング

しかし、罪に問われることのなかった医師らもたくさんいたことも事実です。

どんな場所にあった?

オーストリアのウィーン

シュピーゲルグルントは、アスペルガー症候群の命名由来にもなったハンス・アスペルガー医師の国であるオーストリアの首都、ウィーンに存在していました。

オーストリアは、1938年からナチス・ドイツを歓迎・統合の道を選んでいました。政治的権限がドイツに移行していたため、オーストリアでも多くの「安楽死」という大量殺害が実行されたのです。

詳しくは「なぜアスペルガー医師やオーストリアの医師達は、ナチスによる障害児(者)安楽死計画を受け入れたのか」ページをご覧ください。

シュタインホフ精神病院に存在

シュピーゲルグルントは、先にも少し触れていましたが、1907年に建設された精神科療養所および特別養護老人ホーム「シュタインホフ精神病院」の敷地内にありました。

シュタインホフ精神病院は、当時精神分析が盛んだったヨーロッパの中でも、最も近代的で最大の精神科クリニックでした。

◇参考◇【アスペルガー医師の時代背景】精神分析が盛んだったドイツ語圏のヨーロッパ

昔はシュタインホフ精神病院と呼ばれ現在はオットーワグナー病院となっている建物が並んでいる一帯の様子
昔シュタインホフ精神病院と呼ばれた現在のオットーワグナー病院 画像はKunst und Kultur in Wienより

ウィーン郊外のなだらかな傾斜の森の中にあり、1.4キロ平方メートル(東京ドーム約30個分)という広大な敷地内に、豪華な60棟ものパビリオンの複合施設から成り立ち、現在もオットーワグナー病院(Otto-Wagner-Spital)という名前で存在しています。

オットーワグナー病院(2020年)
現在のオットーワグナー病院入り口 画像はWikipedia Otto-Wagner-Spital より

当時は、病院として34棟、他には患者のための劇場や病院付属の教会などが存在していました。

昔のシュタインホフ精神病院
ナチス時代のシュタインホフ精神病院。患者のための劇場(右側)や教会。

新進芸術家の中心人物だったオットー・ワグナー(Otto Wagner)氏をはじめ、オーストリアを代表する建築家らの設計により、3年もかけて建設された病院でした。

シュタインホフ教会
シュタインホフ教会 画像はTrip Plannerより

このような建物の9棟(パビリオン1、3、5、7、9、11、13、15、17)がシュピーゲルグルントとして使用されました。

参考:Wikipedia Steinhof

参考になる情報・引用文献

参考1:表向きの説明

1942年から閉鎖される1945年までシュピーゲルグルントの教育ディレクターを務めていた心理学者であり教育者であったハンス・クレネク(Hans Krenek)は、1942年6月16日に下記のように述べています。

„Die Fürsorgeanstalt „Am Spiegelgrund“ hat die Aufgabe, alle psychisch auffallenden Kinder und Jugendlichen vom Säuglingsalter bis zum Erreichen der Volljährigkeit nach genauester Beobachtung und Prüfung ihrer psychischen und physischen Kenntnisse und Fähigkeiten nach erfolgter Begutachtung in die für sie entsprechende Anstalt bzw. Pflegestelle einzuweisen. Außerdem sollen die hiebei gewonnenen Erfahrungen für spätere wissenschaftliche Arbeiten gesammelt werden. […] Alle Durchzugsgruppen, im besonderen aber die Säuglings- und Kleinkinderabteilung, dienen in erster Linie Beobachtungs- und Begutachtungszwecken und haben außerdem die Aufgabe, sowohl in medizinisch-psychologischer als auch in erbbiologischer und psychiatrischer Hinsicht das gesamte zur Verfügung stehende Zöglingsmaterial zu erfassen und einer späteren wissenschaftlichen Verarbeitung zuzuführen.“

Böhlau, “Zur Geschichte der NS-Euthanasie in Wien: Von der Zwangssterilisation zur Ermordung" (2002) Eberhard Gabriel, Wolfgang Neugebauer Böhlau, Pp.2002 – 422
↑ 和訳概要

「アムシュピーゲルグルンド」福祉施設は、適切な施設または養護施設に、心理的および身体的知識と能力を注意深く観察および検査した後、すべての精神的に異常な子供と青年に、乳幼児から成人の年齢まで指導する役割を果たします。さらに、得られた経験は、後の科学研究のために収集されます。[…]すべての分遣隊グループ、特に乳幼児部門では、主に観察と評価を本来の目的を務め、また、医学的心理学的および遺伝的生物学的および精神医学的観点から、利用可能なすべての生徒の資料を記録し、後の科学的処理のために提出するという任務もあります。

参考2:児童部門について

子どもの安楽死を扱う「児童部門」はナチス・ドイツの統治下の地域に合計30ヶ所以上存在しました。指定場所は、精神施設や病院、療養所や老人ホームでした。

最初の児童部門

はじめて児童部門が設けられたのは、ドイツのブランデンブルク州にあるAsklepios Fachklinikum Brandenburgというパビリオンスタイルの州最大の病院でした。その病院には、精神病院と療養所、特別養護老人ホーム、教会や墓地などが備わっていました。

そこでは、1938年5月から1944年8月までに入院した4,000人の子供と青年のうち、約1,270人が殺害されました。

さらにその児童部門では、他の児童部門の責任者になる医師に対して、訓練が行われました。

そこは現在、ブランデンブルク専門病院(FACHKLINIKUM BRANDENBURG)という精神神経科病院として存在しています。

ブランデンブルク専門病院
ブランデンブルク専門病院 画像はmappde.comより

2番目にシュピーゲルグルント

シュピーゲルグルントの児童部門は、2番目に設けられた施設でした。建物としてパビリオン15,17が利用され、その写真もよく見られます。

パビリオン15の入口
パビリオン15の入り口 画像はWikipedia Am Spiegelgrund より
パビリオン15
パビリオン15の外観
以下、パビリオンの画像はバーモント大学社会学部准教授、Lutz Kaelber氏のサイト内 “Am Spiegelgrund“(StädtischeJugendfürsorgeanstalt “Am Spiegelgrund" Wien)より
パビリオン17
パビリオン17の外観

参考3:親にとっては治療してくれる希望の場所

für die meisten Eltern aber ein Ort der Hoffnung.Weil sie glaubten, ihren Kindern würde dort geholfen. Kindern, die kleinwüchsig waren oder Probleme mit dem Sprechen hatten, an der typischen Kriegskrankheit Rachitis litten, sich schlecht konzentrieren konnten oder zu spät laufen lernten.

Mehr als eine Tarnbezeichnung für eine Tötungsanstalt war das Wort „Kinderfachabteilung“ aber nicht.

WeLT “Die Ahnenforschung, die im Nazi-Heim endete" Carolin George 2015.9.29
↑ 和訳概要

しかし、ほとんどの親にとって、彼らの子供がそこで助けられると信じていたので、希望の場所でした。 身長が低い、または話すのに問題がある、典型的な戦争病のくる病に苦しんでいる、集中力が足りない、または歩くのが遅すぎることを学んだ子供。しかし、「児童部門」という言葉は、殺害センターの表紙にすぎませんでした。

さいごに

今回はシュピーゲルグルントがどんな所なのかを見てきました。

長くなりましたが、最後まで読んでくださってありがとうございました!