ナチス・ドイツや日本にもあった「人間の血統改良」を目指す【優生学】とは?

2020年10月22日

優生学とは?

優生学とは?

優生政策のもとになった優生学とは、1883年にダーウィンのいとこである人類学者フランシス・ゴルトンが提唱した「人間の血統改良」を目指す学問です。

フランシス・ゴルトン
画像はWikipediaより

ゴルトンは、人の才能はほぼ遺伝であり、家畜のように人間も人為選択をすれば、より良い社会が出来ると主張していました。環境の改善をするよりも、生物学的な改良が社会の発展に有意義だと考えていたのです。

ゴルトンによる優生学の位置づけ

生存により値する人種または血統に対し、劣った人種あるいは血統よりも、より速やかに繁殖する機会を与えることによって、人類を改善する『科学』

朝日新聞出版「" 優生学の名のもとに―「人類改良」の悪夢の百年<="" a="">」(1993)ダニエル・J. ケヴルズ (著), Daniel J. Kevles (原著), 西俣 総平 (翻訳)

実はそれは紀元前4世紀頃から存在する考えで、古代ギリシャの哲学者、アリストテレスの師であるプラトンもその概念を唱えおり、20世紀初頭は広く受け入れられた学問でした。

優生学は学問的には応用科学に分類され、進化論の「自然淘汰」の概念と、遺伝学を確立するきっかけになったメンデルの法則から成り立ちます。

優生学は(中略)一般に「生物の遺伝構造を改良する事で人類の進歩を促そうとする科学的社会改良運動」と定義される。(中略)優生学は20世紀初頭に大きな支持を集めた。その最たるものがナチス政権による人種政策である。しかし、多くの倫理的問題を引き起こしたことから、優生学は人権問題としてタブーとなり、第二次世界大戦後は公での支持を失っていった。

wikipedia「優生学

チス・ドイツでの優生学

優生学を政策に取り込み、国民全体で非道なまでに積極的に取り組んだ国といえば、ナチス・ドイツが挙げられます。

強制断種

ドイツは1933年にヒトラーが総統となって以降、優生学の取り組みを国政に取り入れました。

遺伝的に健常な家族には手当を支給する一方で、遺伝的欠陥をもつと判断された人、またはアルコール依存症の人は1934年から「遺伝病子孫予防法(Gesetz zur Verhütung erbkranken Nachwuchses)(1933年7月14日に成立)」の下で、本人の意志に関係なく強制的に不妊手術をされました。

その手術は人種衛生に貢献すると信じられていました。

その人数は実に40万人以上にのぼり、その手術によって5千人以上の人が亡くなったといいます。

判断基準は公衆衛生担当官や施設所長による遺伝的調査で、そこで精神疾患(統合失調症や知的障害など)つまり遺伝的欠陥と報告されると、強制断種の要請が行われ、医師と判事が遺伝健康裁判所で判決を下したのです。

障害児の大量殺害

こちらについては、下記ページに詳しく説明していますので、ご覧ください。

T4作戦(大人の障害者大量殺害)

こちらについては、後日記載します。

ユダヤ人迫害(ホロコースト)

ナチス政府は当初ユダヤ人を移送することを考えていましたが、第二次世界大戦のさなかではそれは不可能になりました。そこで最終的に殺害をすることになったのです。

ユダヤ人迫害であるホロコーストの犠牲者は、正式な資料は残っていないながらも歴史学者の芝教授は600万人は下らないと見ています。参考:2008年 中央公論新社出版 芝健介『ホロコースト』 Pp. 233-234

その他

他にはナチス政府により、同性愛者や反社会的常習犯などの殺害が行われました。

ナチス政府が優生政策を行った理由

なぜナチス政府は優生学をもとに、世界最悪の大量殺戮を行うに至ったのでしょうか?それはヒトラーの思想と独裁政権が原因でエスカレートしたと言えます。

ヒトラーの社会思想

ナチス・ドイツの総統であったヒトラーは優生学の信奉者でした。少年時代からの人種主義者であり、オーストリア国籍にも関わらずドイツ主義者でした。

従軍時のヒトラー(右端) 画像はWikipediaより

ヒトラーは第一次世界大戦にドイツ・バイエルン陸軍に義勇兵として従軍し、6回も勲章を受勲するなど勇敢な兵士であったと評価されていますが、その戦いの最中に自分の使命が「ドイツを救うこと」であると確信し、「ユダヤ人根絶」を決意しました。

ヒトラーは人種を三段階に分け、ドイツ人や北ヨーロッパ人を最上位であるアーリア人種(中でも雑種化していない純粋民族であるゲルマン民族が最も上等)とし、最下位をユダヤ人であるとしました。

ヒトラーの政治活動開始

第一次世界大戦後、ヒトラーは政治家へ転身し、政界へ進出していきました。1919年に創設されたドイツ労働者党(DAP)へ入党、翌年には国家社会主義ドイツ労働者党(NSDAP、ナチ党)と改名、1921年に党の議長になり独裁的権力を持つようになりました。

当初ナチ党は苦境にあり他の党に引けをとっていまいたが、1932年の国会議員選挙に初めて得票率1位(37.8%)・国会の第1党となり、翌年にはヒトラー内閣が発足しました。

ヒトラーの独裁政権

1933年にヒトラーがドイツ国首相になり、1934年に大統領の権能を個人として継承しました。

そのことでドイツ史上かつてない権力を掌握し、ナチズム運動が国家と同一のものになるという特異な支配体制を築きました。

1934年にドイツの大統領が死去し、ヒトラー首相は自分に大統領の職能を移しました。このことは民族投票で89.93%という支持率を得て承認されており、ヒトラーの意思が最高法規となる存在になりました。

(これ以降、国民はヒトラーをフューラー(ドイツ語:Führer)と呼び、崇拝は国民的なものとなりました。「ハイル・ヒトラー(ヒトラー万歳)」という右手を突き出すナチス式敬礼や、文書末尾記載も義務付けられました。)

POINT

ヒトラーが総統となり、ナチス政権下では優生思想に基づく公の政策となりました。

ナチス政府が優生政策を行った理由

理想のアーリア人種は金髪、青い目、長身でした。学校でも教師は生徒がアーリア人種に適しているかを確認するため頭や顔の部位の測定、髪や目の色の記録なども行っているほどでした。参考・画像:ホロコースト百科事典

ヒトラーはアーリア人種が唯一文化を創造する能力を持つ「文化創造者」と信じ、世界制覇するためにはアーリア人種の純度を保たなければならないと主張していました。

一方、ユダヤ人をこの対極にある「文化破壊者」と考え、精神障害者や身体障害者をヒトラーの人種的理想を遺伝的・生物学的に脅かすものと考え、人種衛生学を強化したのです。

それゆえ、ユダヤ人・少数民族・障害者は、排除の対象となり、迫害、最終的には殺害されるようになってしまいました

日本での優生学

日本で初めて作られた優生学的な法律は、1940年に成立した、不良な子孫の出生を防止する「国民優生法」です。

戦時下の日本において「産めよ殖やせよ」という方針の中、障害者の断種を目的として「遺伝性疾患」をもつ人に限って、不妊手術を行うことを認めた法律です。

日本では障害者全員ではなく、希望し容認された場合のみ対象となりました。

戦後、親族の要望の後押しもあって1948年には「優生保護法」が成立し、「遺伝性疾患」だけでなく「らい病」や「精神病・精神薄弱(知的障害)」に拡大され、また、本人の同意なしに不妊手術を受けられるようにもなったのです。

性的被害・加害からの保護者の負担・批判を減らす目的もありました。

本人の同意がない不妊手術は、少なくとも1万6,500人に行われました。

この法律は1996年に現在の「母体保護法」に変更され、障害者の強制断種にかかる条文が削除されました。

まとめ

今回は、今では裁判にもなる優生学について見てきました。

非科学的な考えに基づいた行為が、昔は当然のように行われていたことに改めて恐怖を抱かされました。

本日はこの辺で。最後まで読んで下さって、ありがとうございました!