ナチス時代【シュピーゲルグルント】子どもたちが受けていた虐待とは?

2020年9月15日

シュピーゲルグルントで子どもたちが受けていた虐待とは?

【シュピーゲルグルントに移送されてくる子ども達は「現代の基準では明確な障害をもっている」と見なされる子から、「どこも問題がない」と言われるような子までと、様々でした。

シュピーゲルグルントの病室の一例
シュピーゲルグルント 画像はEducation Newsより

「明確な障害をもつ」とみなされる子ども達の中には、アスペルガー症候群の命名由来にもなったハンス・アスペルガー医師によって、ウィーン大学小児クリニックの治癒教育部門から移送された子も何人かいました。

◇参考◇なぜアスペルガー医師やオーストリアの医師達は、ナチスによる障害児(者)安楽死計画を受け入れたのか

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どのような子が、どのような基準で、どこから移送させられたのかは「【シュピーゲルグルント】とは?むかしの自閉症児の過酷な運命」ページをご覧下さい。下記の「安楽死」を判定する方法なども詳しく説明しています。

そのような幅広い層の子ども達は、【シュピーゲルグルントに入れられた後、どのような運命が待ち受けていたのでしょうか?

1.「安楽死」させる子がふるいにかけられた

【シュピーゲルグルントに来た子どもたちの情報は、ナチスの安楽死計画の司令部に渡され、その中から「安楽死」させる子ども達がふるいにかけられました。

詳しくは「【シュピーゲルグルント】とは?むかしの自閉症児の過酷な運命」ページ(上部赤枠内にリンクがあります)で説明していますのでそちらをご覧ください。

2.医学実験台にされた

数千人の子どもたちは、生きているうちに辛い医学実験台にさせられました。「安楽死」と命令が下っていた子どもたちでさえ、通常はすぐには殺されず、時には数ヶ月の医学実験台にさせられていました。

シュピーゲルグルントの医師達
画像はAHRPより

例1)結核ワクチン

その子たちは、アスペルガー医師の同僚のエルマー医師(Elmar Türk)により、ウィーン大学小児科で人工的に結核に感染させられ、結核ワクチンの実験台にもされていました。

実験後、子供たち【シュピーゲルグルントに送られ、そこでワクチンの結果を病理学的所見と比較できるように治療されることなく見殺し、つまり、殺害されました。

例2)気脳造影

さらに気脳造影という、脳の構造を明らかにするために腰椎穿刺によって大部分の脳脊髄液を排出し、空気、酸素、またはヘリウムに置き換えた上でX線画像を撮るといった、非常に危険で耐えがたいほどの痛みを伴う苦痛な実験も日常的に行われました。その手技後は、頭痛や激しい嘔吐の副作用が続きます。

参考:BMC : Hans Asperger, National Socialism, and “race hygiene” in Nazi-era Vienna, Alliance for Human Research Protection “Am Spiegelgrund” in Vienna“Special Children’s Ward” 1940–1945, November 18, 2014, Wikipedia Am Spiegelgrund, Pneumoencephalography

それらの医学実験中に亡くなる子もたくさんいました。

3.栄養失調や低体温症に

子どもたちは、入居して医学的報告書が作成された後、常に飢餓状態にさせられました。また凍えるような環境下に置かれました。低体温になり、鼻水が垂れ、カタル、高熱、そして肺炎にもなりました。もちろんそこでは治療や対処療法などされません。最初は笑って遊ぶことができた子供たちも、感染症にかかりやすくなり、徐々に健康状態を悪化させていったのです。

特に栄養失調と低体温症は、耐え難いほどだったと言われています。

Night after night, we had to stand at the foot of our beds, dressed only in our night shirts, which only reached down to our knees – in summer with the windows closed and in winter with them open.

Rudolf Karger
↑ 和訳概要

来る夜も来る夜も、私たちは膝まで届くナイトシャツだけを着させられ、ベッドのふもとに立たされました-夏は窓を閉めっれ、冬は窓を開けられていました。

Once a week we were given porridge, but not with full fat milk butter and chocolate on it. No. Only with skimmed milk, thin and with lumps. We had to eat that. One of us never managed it. Two nurses stuffed him – opened his mouth, held his nose [and shoved in the food]. He always threw it up on his plate and the whole process lasted until the plate was empty and he had swallowed it all. Meanwhile, we had to watch while standing at attention.

Rudolf Karger
↑ 和訳概要

週に一度、おかゆ(シリアル)を与えられましたが、脂肪分が含まれたミルクやチョコレートは含まれていませんでした。脱脂乳のみを使用し、希薄で塊も入っているものでした。私たちはそれを食べなければなりませんでした。 私たちの一人はどうしても食べることが出来ませんでした。すると2人の看護師は彼の口を開け、彼の鼻を持ち、彼の口におかゆを押し込みました。彼はいつもそれを皿の上に吐いてしまうのですが、皿が空になりすべて飲み込むまで、そのプロセスは続きました。 その間、私たちは注意を向けながら見なければなりませんでした。

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4.毎日虐待されていた

子どもたちの世話は主に看護師が行ったのですが、男性看護師がボクサーグローブで殴るなどの虐待も日々行われていました。

そこにいる子ども達は決して重度障害の子達だけではないことは冒頭で説明した通りなのですが、そのため、反抗したり脱走(後述)を目論む子もいました。

そのため、嘔吐注射と表現される薬物を投与され、子ども達の反抗心をなくさせていまいた。

There were beatings every day. […] Then we were given the famous vomiting injections, which caused us to throw up and suffer terrible pain. […] they were just to stop us from becoming too high-spirited.

Rudolf Karger
↑ 和訳概要

毎日殴打がありました。[…] それから私達は有名な嘔吐注射を与えられました、それは私達を吐き、ひどい痛みを経験させました。[…] 彼らは私たちがあまりにも元気にならないようにするだけでした。

JohannGross氏の書籍
ヨハン・グロス氏の書籍 画像はAmazonより

„Mir war, als hätte ich einen festen Hieb in den Magen bekommen, alles krampfte sich zusammen, so dass ich kaum atmen konnte. Als dann gleich drauf der Brechreiz einsetzte, war ich schon bei der Klomuschel und weg war mein Frühstück. Immer wieder musste ich würgen und spie hauptsächlich nur mehr Flüssigkeit. So kniete ich bei der Klomuschel, meinte, so viel könne ich doch gar nicht im Magen gehabt haben, wie ich schon herausgespien hatte. Auch die Krämpfe im Magen wollten nicht und nicht aufhören. »So also ist das Sterben«, dachte ich, denn jetzt war ich fest überzeugt, dass mir der Arzt mit seiner Spritze irgendein tödliches Gift injiziert hatte. Als die Magenschmerzen und der Brechreiz nicht nachließen, wäre mir sogar das Sterben schon egal gewesen.“ – Johann Gross

Wikipedia Am Spiegelgrund
↑ 和訳概要

「私は胃を強く叩かれたかのように感じました。すべてが痙攣して呼吸が困難になりました。吐き気がすぐに始まったとき、私はすでに便器にいて、朝食がなくなっていました。何度も何度も窒息しなければならず、たいていはより多くの液体を吐きました。それで、私は便器のそばにひざまずいて、すでに吐き出していたほど胃の中にいることはできなかったと言いました。胃のこむら返りも止まりません。「それで死にそうだ」と私は思った。医者が私に注射器で致命的な毒を注射したと確信したからだ。胃の痛みと吐き気が治まらなかったとき、私は死についてさえ気にしなかったでしょう。」- ヨハン・グロス

5.脱走するとよりツライ罰が

【シュピーゲルグルント】では、時に子どもの脱走が起きていました。しかし、ほとんどが連れ戻され、罰としていつも以上に酷い虐待を受ける運命が待ち受けていました。

On one trip outside, I had the opportunity to escape. Out of homesickness I ran home to my grandmother. Less than two hours later, the door bell rang. Two nurses from Spiegelgrund were there to take me back. They assured my grandmother that there would be no consequences for me. But I already knew what would happen to me – the same as happened to everyone who escaped. And I wasn’t spared. Barely was I back at Spiegelgrund, I was beaten. So many blows to the head, I thought I had gone deaf. The whole group had to stand at attention at the window in silence. My clothes were torn from my body, and in front of the whole group my hair was shaved off – to serve as a warning. That used to be one of the worst punishments. They didn’t only cut the hair, they tore it out. Bloody and bruised, I was then dragged into the bathroom. The bath had already been filled with cold water for me. I was pushed into the bathtub and pushed under many times, so that I couldn’t breathe. I fought back, gasping for air and swallowing water and in my desperation I pulled the plug out of the plughole. I was then pulled out of the bathtub and put under the cold shower for a quarter of an hour. It was horrific; I could hardly move and was thrown from the bathroom into the corridor. Crawling on my knees, I had to crawl past the row of my attackers, being beaten all the while. Then they pulled a night shirt over my head and I was taken to the Children’s Special Department 15 or 17. The pavilions where there were deaths on a daily basis.

Rudolf Karger
↑ 和訳概要

外への旅行で、私は脱出する機会がありました。ホームシックのため、私は祖母の家に走りました。 2時間も経たないうちに、ドアのベルが鳴りました。 シュピーゲルグルントの2人の看護師が私を連れ戻しました。彼らは私の祖母に私には何の影響もないことを保証しました。しかし、私は自分に何が起こるかはすでに知っていました。脱出したすべての人に起こったのと同じです。そして、私もそれは免れませんでした。私はシュピーゲルグルントに戻り、殴られました。頭をたくさん殴られ、耳が聞こえなくなったと思いました。グループ全体が沈黙の中で窓に注意を向けなければなりませんでした。私の服は私の体から引き裂かれ、グループ全体の前で私の髪は剃られました-警告として役立つため。それはかつて最悪の罰の1つでした。彼らは髪を切るだけでなく、引きちぎりました。流血し傷だらけになった後、私は浴室に引きずり込まれました。お風呂はもう冷たい水で満たされていました。私は浴槽に押し込まれ、何度も下に押し込まれたため、呼吸できなくなりました。私は抵抗し、息を切らして水を飲み込み、必死になって浴槽の栓を抜きました。それから私は浴槽から引き出されて、そして冷たいシャワーの下に15分間置かれました。それは恐ろしいことでした。私はほとんど動けず、浴室から廊下に投げだされました。私はひざまずいて、殴ってくる人の列が通り過ぎるまで、ずっと殴られていました。それから彼らは私の頭の上にナイトシャツを引っ張り、パビリオン15か17に連れて行かれました。そこは毎日死があったパビリオンでした。

Medizinische Strafmaßnahmen fanden auch im als Strafgruppe bezeichneten Pavillon 11, teilweise während zweiwöchiger Einzelhaft, statt. Fluchtversuche oder Widersetzlichkeiten wurden mit verschiedenen Injektionen bestraft, genannt sind etwa eine sogenannte „Schwefelkur“, die zwei Wochen anhaltende, heftige Schmerzen in den Beinen verursachte, sodass eine Flucht unmöglich war,[17] und die “Speibinjektion" mit dem Wirkstoff Apomorphin.

Wikipedia Am Spiegelgrund
↑ 和訳概要

パビリオン11では、処罰グループとして知られる医学的な懲罰措置も行われましたが、2週間の独房監禁もありました。 脱走をしようとしたり反抗すると、様々な注射で罰せられました。例えばいわゆる「硫黄治療」と呼ばれる2週間脚に激しい痛みを引き起こし脱走を不可能にする処置や、アポモルヒネが有効成分の「嘔吐注射」などが含まれていました。

アポモルヒネとは、嘔吐中枢を刺激することで嘔吐を誘発する催吐薬のことです。

上記の日常的な虐待は、親を恋しがる年頃の小さな体にとってどれほどつらかったことでしょう。

「安楽死」と判定された子どもたちの運命は?

ベルリンにある安楽死計画のナチス本部から「安楽死」と決定された子ども達も、上記のような虐待を受ける毎日でした。そして、そこで亡くならなかった場合は、私達の考える「安楽死」とはほど遠い下記のような方法で殺害されたのです。

1.肺炎を引き起こされた

【シュピーゲルグルントでの最も一般的な死因は肺炎でした。「安楽死」と決定された子ども達の肺炎は、バルビツール酸の長期間にわたる投与によって、人工的に、そしてそれは日常的に引き起こされたのです。

Lag die Genehmigung vor, wurde meist das Pflegepersonal angewiesen, dem Kind Gift ins Essen zu mischen; oder das Gift wurde injiziert, wobei es so dosiert war, dass die Kinder nicht sofort, sondern mehrere Tage lang, häufig an Lungenentzündung und anderen Folgekrankheiten, qualvoll starben

Wikipedia Heinrich Gross
↑ 和訳概要

承認されると、看護スタッフは通常、子供の食べ物に毒を入れるように指示されました。 または、毒が注射されて、子供がすぐにではなく数日間、多くの場合、肺炎および他の二次的病気で苦しんで亡くなりました

バルビツール酸とは、脳の大脳皮質や脳幹に作用する、昔はよく使用されていた睡眠薬です。現代では、バルビツール酸系睡眠薬は副作用(呼吸抑制など)や乱用性が強く、過量投与時に誤嚥性肺炎を発症するケースもあることから処方数を減らしている薬になります。

1960年代以前に開発された古い種類の睡眠薬を過剰服用すると、それ以後の新しい種類に比べて合併症の誤嚥(ごえん)性肺炎を発症する割合が約4倍高くなるとの調査結果を、医療経済研究機構(東京都)などのチームがまとめた。

デジタル毎日「古い睡眠薬 肺炎リスク…60年代以前に開発、過剰服用で」毎日新聞2016年9月25日

バルビツール酸系睡眠薬は古くから使われてきたが、(中略)時に呼吸停止、循環不全、誤嚥性肺炎や挫滅症候群/コンパートメント症候群などの重篤な後遺症を残したり、ときに死亡したりする症例が散見される。

大阪大学医学部附属病院 高度救命救急センター「救急医療施設におけるバルビツール酸系睡眠薬過量服用による急性中毒の実態調査

2.致死量の睡眠薬で殺害された

肺炎を発症させる他にも、致死量の睡眠薬フェノバルビタール(Luminal)という座薬注入やそれで足りなければモルヒネベースの薬剤注入され殺害されました。

1941, “nach dem Eintreffen von Dr. Gross", führte sein ehemaliger Vorgesetzter Jekelius aus, “begannen wir in unserer Klinik mit der Vernichtung der Kinder … mein Gehilfe Dr. Gross hatte einen praktischen Lehrgang zur Tötung von Kindern absolviert. Monatlich töteten wir zwischen 6 und 10 Kinder … Dr. Gross arbeitete unter meiner Leitung. Die Tötung der Kinder nahm er auf der Grundlage seiner Erfahrungen und Instruktionen vor. Nach der Einführung von Luminal (über den After) in den Organismus des Kindes schlief dieses sofort und befand sich über 20-24 Stunden in diesem Zustand. Anschließend trat zwangsläufig der Tod ein." In wenigen Fällen, so Jekelius, habe die Dosis nicht genügt, dann habe Dr. Gross “zur Erreichung des Zieles in Absprache mit mir" einen tödlichen Cocktail auf Morphiumbasis injiziert.

WeLT “Ein furchtbarer Psychiater" Ulrich Weinzierl 2005 .11.14
↑ 和訳概要

1941年に、「グロス博士の到着後」、彼の上司ジェケリウスは言った、「私たちは私たちのクリニックで子供たちを根絶し始めました…私の助手であるグロス博士は子供の殺害に関する実践的なコースを完了しました。私たちは毎月6〜10人の子供を殺しました…グロス博士は私の指示の下で働き、彼の経験と指示に基づいて子供を殺しました。 Luminalを(肛門を介して)子供の生体に導入した後、子供はすぐに眠りに落ち、20〜24時間この状態を保ちました。その後、必然的に死が発生しました。」 いくつかのケースでは、ジェケリウスによると、用量は十分ではなく、その後グロス博士は「私と相談して目標を達成するために」致命的なモルヒネベースのカクテルを注入しました。

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生き延びた人々

【シュピーゲルグルントを生き抜いた人々もいます。彼らはこの歴史的犯罪を明らかにすべく、たくさんのインタビューに答え、トラウマ的経験が書籍化もされています。

ルドルフ・カーガー氏
シュピーゲルグルントの犠牲者の記念碑の前で、唯一残っている子供時代の写真を持つルドルフ・カーガー氏 画像はNational Fund of the Republic of Austria for Victims of National Socialismより

上記の記事は、ルドルフ・カーガー(Rudolf Karger)氏やフリードリヒ・ザウレル(Friedrich Zawrel)氏などの体験談も参考にさせていただきました。

フリードリヒ・ザウレル氏
2012年5月3日の国家社会主義の犠牲者を追悼する暴力と人種差別に対する追悼式で拍手を送られているフリードリヒ・ザウレル氏 画像はNational Fund of the Republic of Austria for Victims of National Socialismより

まとめ

今回は【シュピーゲルグルントに入れられた子どもたちに待ち受けていた運命について詳しく見てきました。

優生学という今では非科学的な学問が信じられていた時代とは言え、調べていてとても辛いものでした。

今回はこの辺で。最後まで読んで下さってありがとうございました!