【自閉症の報告】なぜカナーが注目され、アスペルガーは注目されず?

アスペルガー医師はなぜ当時注目されず?

自閉症を簡単に調べると、自閉症の発見・初めての臨床報告は、1943年のレオ・カナー医師の論文だと書かれています。

カナー医師の自閉症の定義は極端で、長い間苦しんだ人が多くいました。

しかし実は、アスペルガー医師の方が先に今の「自閉スペクトラム症」と言える子どもたちを定義・報告しています。ただ、それは注目されませんでした。

なぜ1943年から1980年代までの40年間もの間、アスペルガー医師の研究報告は注目されず、カナー医師の定義が普及していったのでしょうか?今回はその疑問点についてみていきます。

はじめに

アスペルガー医師、カナー医師の自閉症報告内容につては、下記ページにまとめています。

カナー医師は権威ある医師だった

カナー医師は、36歳でジョンズ・ホプキンズ大学の児童精神医学部門の創設者となるような優秀な医師でした。ジョンズ・ホプキンズ大学は世界屈指の医学部をもつアメリカ最難関大学の一つです。

アメリカで初めての児童精神科医になった彼は、自閉症を初報告する8年前に「児童精神医学」という学会に向け教科書を作成し、研究者たちに大きな影響を与えていた存在でした。

そのため、必然的に彼の論文は注目されました。

その論文は、今でも自閉症研究の基盤となっています。

アスペルガー医師のバックグラウンド

アスペルガー医師の先鋭的な研究が注目を集められなかった理由は、当時の時代背景からも説明できます。

ハンスアスペルガー医師
診察するアスペルガー医師

ドイツ語の執筆

アスペルガー医師の論文はほとんどがドイツ語で執筆されています。

実はアスペルガー医師が最初に自閉症児の報告をした時代は、カナー医師のいるアメリカよりも、アスペルガー医師がいたドイツ語圏のヨーロッパの方が精神分析が盛んで、その頃のヨーロッパの精神医学の論文は英語ではなくドイツ語で執筆されていました。

第二次世界大戦以降はイギリスやアメリカが精神分析の中心になったため、ドイツ語のアスペルガー医師の論文は埋もれたまま時が経ってしまったのです。

今では有名になった1944年の論文「小児期の “自閉的な精神病者”」も、アスペルガー医師が亡くなった翌年の1981年、英語の論文であるウィング医師「アスペルガー症候群:臨床報告」に取り上げられ、徐々に世界中の専門家から注目を集めていったという経緯があります。

戦争・ナチス政権の影響

資料の喪失

アスペルガー医師の有名な1944年の論文が発表されたのは、第二次世界大戦中でした。

ちょうどその年にアスペルガー医師が設立した小児クリニックも爆撃の影響で破壊され、共に子どもの治療にあたっていた敏腕姉妹も亡くなり大量の患者の記録や資料も消失しています。

ナチス政権の影響

戦争前のオーストリアは科学に基づいた精神分析が盛んで、世界で初めて困難な子どもたちを見捨てることなく治癒教育を推進していた国でした。

しかし、第二次世界大戦中にオーストリアはナチス・ドイツと併合し、ヒトラー政権が指揮する精神医学に従わざるを得なくなっていきまいた。

第二次世界大戦

優生学という考えに基づき、精神障害者や障害児を排除、つまり対象者の強制避妊手術や安楽死が秘密裏に行われて行きました。

そのため、第二次世界大戦後は他のナチス政権支配下にあった国と同様、オーストリアの精神医学も批判の的となりました。

そのような背景のあるドイツ語論文が脚光を浴びることがなかったことは容易に想像ができますね。

知ろうとした人がいなかった

もともと自閉症自体、知ろうとした専門家もかなり限定的なもので、カナー医師の自閉症定義に疑問を呈する機会がありませんでした。

カナー医師も多くの患者を診断しましたが、少しでも自分の定義に当てはまらない場合は「自閉症」ではないとしたため、よりカナー医師の定義が固定的になっていきました。

さいごに

今回は、自閉症を発見したとされているカナー医師より前に自閉症児の研究報告をしていたアスペルガーの研究はなぜ注目されなかったのか?という点について簡単に書いていきまいた。

しかし時代背景による影響が大きく、それはとても簡単に語れるものであはありません。より深く知りたい方は、アスペルガー医師についての記事もご参考になると思います。

最後まで読んで下さって、ありがとうございました!