【アスペルガー医師】とは?|生い立ち|アスペルガー症候群命名の経緯

アスペルガー医師_eyecatch

自閉症を発見したとされているカナー医師よりも5年前に、自閉症児の研究報告をしていた医師がいます。

オーストリアのハンス・アスペルガー医師です。

彼は精神的に異常と定義した子どもたちの治癒教育を生涯の仕事に選び、現代の自閉スペクトラム症の概念を築くためのきっかけを与えた医師です。

彼の活躍を語るには、生まれた国の時代背景、とくにオーストリアの治癒教育について語る必要があります。

概要

アスペルガー医師
画像はThe New York Timesより

ハンス・アスペルガー(Hans Asperger)医師は、「アスペルガー症候群」の由縁となった医師です。しかし、そう命名されたのは彼の死後(1980年10月21日没 74歳)でした。「アスペルガー症候群」が命名されたウィング医師による論文についてはこちらのページにて。

アスペルガー医師は、初めて自閉症が臨床報告された1943年よりも前に、現代の自閉スペクトラム症に近い症例を研究報告していた医師でもあります。

彼は激動の国に生まれ、ヒトラー政権下で奮闘し、戦争を経験しながら、現代の自閉スペクトラム症と呼ばれる子ども達を気遣い・救うため熱心に治癒教育にあたり、また医学を志す者の教育のため亡くなる6日前まで教壇に立ちました。

以下に時系列で彼のバックグラウンドと活動内容などを書いていきます。

生まれ~学生時代

生まれ

1906年2月、アスペルガーは今はなきオーストリア-ハンガリー帝国で都市に近い祖父が農家を営むカトリックの家に、3人兄弟の長男として誕生しました。

下記はアスペルガー医師が書いた家族のことについての内容です。

Ich war das erste von drei Kindern, das mittlere ist gestorben, mein jungerer Bruder war vier Jahre junger, ist in Russland gefallen. Wie bin ich erzogen worden? Mit viel Liebe, ja Selbstentauserung von meiner Mutter, mit groser Strenge von meinem Vater. Mein Vater hat immer daran gelitten, dass ihm eine hohere Bildung versagt worden war, und nun musste der Sohn das erreichen, was er nicht erreichen konnte.

Autismus-Kultur “War Hans Asperger ein Nazi?" 22.05.2020.
↑ 和訳概要 + α

・お母さん(ヨハン・アスペルガー)は自分を犠牲にするほど愛情深かった
・会計士のお父さん(ソフィー・アスペルガー)は厳格に、そしてお父さん自身が受けられなかった高等教育を息子に受けさせるように育てられた
・真ん中の子は、悲しいことに生後間もなく亡くなっている

アスペルガー症候群のような少年時代

アスペルガー少年は、皮肉にもアスペルガー症候群のように、友達を作れず孤独な変わった子でした。

幼少から言語の才能は特別に長けていて、一年生の頃にはすでに好きなオーストリア劇詩人(フランツ・グリルパルツァー)の詩を興味のないクラスメイトによく引用していました。

さらに自分のことを「彼」などのように三人称で引用する表現も好んで使っていました。参考:Lyons, V., Fitzgerald,  M.  “Did Hans Asperger (1906?1980) have Asperger Syndrome?" J Autism Dev Disord 37, 2020?2021 (2007).

POINT

アスペルガー医師自身も、自閉スペクトラム症の特性を持ったような子どもだった。

子ども時代に第一次世界大戦を経験

  • その頃のポイント
    • 1914年、アスペルガー少年が8歳のとき、第一次世界大戦が始まり、彼の国ではユダヤ難民に対する反感感情も高まっている状態だった。(詳しくはこちらのページにて)
    • 当時、ドイツ語圏のヨーロッパでは精神分析が盛んだった。(詳しくはこちらのページにて)
POINT

反ユダヤの意識は、後のアスペルガーが医師としてキャリアを積むうえで見逃せないポイントです。

学生時代:ドイツ青年運動に参加

この頃は、ドイツ青年運動という青年の理想活動が、若い人たちの数々の団体で盛んに行われていました。

ドイツ青年運動 画像はAmazonより

アスペルガーも1930年代、バンドノイランドというカトリックの青少年団体の他にいくつかの団体のメンバーになりました。

幼少期に友達を作れなかったアスペルガー青年は、そこで登山などの野外活動(ワンダーフォーゲル)、文学、芸術の経験を通し、生涯連絡を取り続ける友人達に巡り合えました。

Gepragt weis ich mich vom Geist der Deutschen Jugendbewegung, die eine der edelsten Bluten des deutschen Geistes war.

↑ 和訳概要

私はドイツ精神の最も高貴な花の一つであるドイツ青年運動の精神に影響を受けています

アスペルガー医師はハイキングや登山を生涯の趣味として、1961年にはマッターホルン、1965年にはモンブランに登山しました。

医師になりたての頃

25歳:医師になる

アスペルガーは、25歳の1931年に医学部を卒業し、学位を取得しました。

昔のウィーン大学
ウィーン大学

医学部を卒業した後、1931年5月から医師として勤務したのは、ドイツ語圏で最古・最大の病院であるウィーン大学総合病院(1784年創業)の中の創設20年を迎えたウィーン大学小児クリニックでした。

ウィーン大学小児クリニック治癒教育部門0
ウィーン大学小児クリニック

26歳:治療教育の世界へ

1年後の1932年には、ウィーン大学小児クリニックの治癒教育部門で補助医として働くようになりました。

ウィーン大学小児クリニック治癒教育部門
ウィーン大学小児クリニック治癒教育部門 画像はH-MADNESSより
POINT

ウィーン大学小児クリニックの治癒教育部門には、先鋭的に小児神経医学を研究している医師たちが多く在籍し、後のアスペルガー医師にも影響を与えていた。

ウィーン小児クリニックの医師たち(右側の1列目はハンス・アスペルガー医師)
1933年ウィーン大学小児クリニックの医師たち(前列右端はハンス・アスペルガー医師)画像はWIENER ZEITUNGより

他の医師たちについては、下記ページで詳しく説明していますので、是非あわせてご覧ください。

1931~1932年にはフランティシェク・チョボステック(チェコ・オーストリア軍の医師)の神経科クリニックでも数週間ですが並行して働いていました。

Franz-Chvostek医師
1911年から1935年にウィーンのメディカルクリニックの院長でした。画像はMahler Foundationより

28歳:初めての博士研究論文

1934年なるとシュレーダー医師と共にドイツ(ライプツィヒ)の精神科クリニックでも働き、最初の論文を発表しました。

  • アスペルガー医師の1つめの博士論文
    • 論文名:「遺尿の治療のために」(ドイツ語で “Zur Behandlung der Enuresis" ArchivfurKinderheilkunde)
    • 治癒教育部門の入院対象にもなる遺尿(小児の尿失禁)の論文。
    • 参考:wikipedia “Hans Asperger : Publications" より:Siegl&Asperger(1934) “Zur Behandlung der Enuresis" ArchivfurKinderheilkunde、102,88-102
POINT

当時、アスペルガー医師はラザール医師と同様に、精神的に異常とされる子どもの診断や治療だけでなく、どうやったら社会的に適応できるようになるかという教育に力を注いでいた。

この頃:オーストリアの大学が反ユダヤ人扇動の場に

この頃、オーストリアの大学は、強力な反ユダヤ人の扇動の場でした。

当時ウィーン大学小児クリニックの院長だったフランツ・ハンバーガー(Franz Hamburger)医師も、熱心なナチスの社会的思想を持ち、ウィーン大学医学部のナチ党(NSDAP)首長の一人でした。

フランツハンバーガー医師
フランツ・ハンバーガー(Franz Hamburger)医師

彼は、創設者であるラザール医師やピルケ教授が築いてきたウィーン大学小児クリニックを、反ユダヤ人政策の旗艦に変えていきました。

具体的には科学的思考に基づく従来型の医療から、研究と離れ政治的考えのもと人種生物学的に医師達を教育したり、多くのユダヤ人の職員・協力者がいた環境を変えていったのです。

POINT

ウィーン大学自体が、反ユダヤ人扇動の場になっていった。

治癒教育部門の責任者になった頃

29歳:治癒教育部門の責任者に

そんな中、ユダヤ人でないアスペルガー医師は、1935年、ハンバーガー医師によって治癒教育部門の責任者に抜擢されました。

治癒教育部門には下記のように、すでに責任者・他にもアスペルガー医師よりも年齢もキャリアも上のユダヤ人医師達がいる中で、治癒教育に関する論文も1つしか発表しておらず、小児科の専門医として正式な資格が与えられていない状態での抜擢でした。

POINT

アスペルガー医師は、当時、専門医として正式な資格が与えられていない状態で治癒教育部門の責任者に抜擢された。

そのせいか最初のうちは、アスペルガー医師の責任者任命は、治癒教育部門での日常業務にほとんど影響を与えていなかったようです。

1930年代の職員の出版物では、責任者であるアスペルガー医師については言及しておらず、創設者であるラザール医師に敬意を表し続けていました。

治癒教育部門責任者としてのアスペルガー医師

ハンスアスペルガー医師

アスペルガー医師は治癒教育部門で学習と遊びの場を作り出しました。

アスペルガー医師との個人的なつながりによって、学校などでは学ぶのが難しい重い精神病の多くの子どもたちを長年にわたって世話したといいます。

アスペルガー医師は後にこのように語っています。

Ob man mit einem Kind spielt, ob man ihm Mathematiknachhilfe gibt, ob man uber seine philosophischen oder seine Sammlerinteressen mit ihm redet. Viel wesentlicher ist die lautere personliche Hingabe des Erziehers, der volle personliche Einsatz […] mehr ein schlichtes Sein als ein kompliziertes Tun.

↑ 和訳概要

個別に遊び、数学を教え、哲学や興味のある分野について彼らと話すことは重要、なによりもシンプルに教育者個人の純粋な献身が複雑な行為よりも重要

ハンスアスペルガー医師3
画像はMasiosareより
POINT

アスペルガー医師は、脳障害や行動障害のある子供たち一人一人に向き合い、熱心に、献身的に、治癒教育を行う医師だった。

29歳:結婚

アスペルガー医師はその年に結婚し、後に5人の子どもに恵まれました。

アスペルガー医師の娘マリア 画像はWISSEN より

そのうちの一人、マリア・アスペルガー・フェルダー(Maria Asperger Felder)は、現在スイスのチューリッヒで自閉症の専門家として小児精神科医をしています。彼女は、アスペルガーの研究者であるウタ・フリス医師のインタビューで、父親のことを「穏やかで遠い人 “ruhigen und distanzierten Mann“」と表現しています。

31歳:同僚フランクル医師のアメリカ亡命

フランクル医師は、カナー医師が小児自閉症の臨床報告を行うことになったキーパーソンです。詳しくはこちらページにて。

彼はオーストリアで増大する反ユダヤ主義に直面して、カナー医師のサポートによって1937年にアメリカへ亡命し、カナー医師と共に働き始めました。

その6年後、カナー医師は小児自閉症の定義を初めて行い、翌年その論文が世界的に注目されたのです。

POINT

ウィーン大学小児クリニックの治癒教育部門での研究情報が、フランクル医師の渡航により、アメリカのカナー医師へと伝わった。

32歳:ナチス・ドイツによるオーストリア合併 → キャリアの後押し

1938年3月12日、ナチス・ドイツによるオーストリア併合が行われました。これによりオーストリアの医学現場・精神医学理念がさらに大きく変わりました

その年のうちにヒトラーのユダヤ人迫害によって、ウィーンでは4900人の医師の3分の2以上、小児科医では110人のうちの70%がユダヤ人として追放され、他の国へ亡命しました。参考:Tidsskrifted “Asperger, nazistene og barna ? historien om en diagnoses tilblivelse" 2020.5.30

このユダヤ人医師達がウィーン大学小児クリニックの治癒教育部門から次々といなくなったことで、アスペルガー医師のキャリアはさらに後押しされていく形になりました。

アスペルガー医師
画像はBMCより

1938年5月には、ウィーン少年裁判所への専門家証人として任命されました。

32歳:「情動的交流の自閉的障害」についての講演(1938年発表の有名な講演・論文)

ナチス・ドイツによるオーストリア合併から半年後、1938年10月3日に開催された研修講座でアスペルガー医師は講演を行っています

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中央ヨーロッパ医学ジャーナル(Wiener Klinische Wochenschrift)画像はSpringより

そこで2人の少年のケーススタディを使用して「情動的交流の自閉的障害」について説明し、その内容を「精神的に異常な子供」(ドイツ語でDas psychisch abnorme Kind、英語で “Psychically abnormal child")というタイトルで、中央ヨーロッパ医学ジャーナル(Wiener Klinische Wochenschrift, No.49, 1314-1317)に掲載しました。

POINT

これが、1943年にカナー医師が自閉症を初めて定義した論文よりも前に、自閉症を報告しているアスペルガー医師の論文です。

アスペルガー医師はその講演の中で下記のように述べています。

We stand in the midst of a massive reorganization of our intellectual and spiritual life, which has seized all areas of this life?not least in medicine. The central idea of the new Reich?that the whole is more than its parts, and that the Volk is more important than the individual?had to bring about fundamental changes in our whole attitude, since this regards the nation’s most precious asset, its health

↑ 和訳概要

・私たちは知的生活と精神的生活の大規模な再編の真っ只中に立ち、この生活のすべての領域、特に医学分野を獲得した
・健康が国の最も貴重な資産であるということが新しい国の中心的な考え方(全体はその部分よりも重要であり、国民は個人よりも重要である)なので、全体的な態度に根本的な変化をもたらす

You know by what means one strives to prevent the transmission of diseased hereditary material?many cases that belong here are hereditary disorders?and to promote hereditary health. We physicians have to take on the tasks that accrue to us in this area with full responsibility

↑ 和訳概要

・病気の遺伝物質(多くのケースは遺伝性疾患)の伝染を防ぎ、遺伝性の健康を促進しようとする努力が何を意味するか知っている
・私たち医師は、この領域で私たちに生じた任務を全責任で引き受けなければならない

These children are intellectually below average (including to the degree of feeble-mindedness)?whereby with intelligence we mean abstract intelligence?whereas practical reason, in short everything that has to do with instinct, including the practical usefulness and the values of character, are much better developed in relative terms. These cases are important?or at least they will be as soon as the Law for the Prevention of Hereditarily Diseased Offspring comes into force here. If the physician has to take a decision in such a case, he will not be allowed to do so based solely on a questionnaire or the intelligence quotient. Rather, he will base it primarily on his knowledge of the child’s personality, taking into account all of the child’s skills in addition to abstract intelligence 

↑ 和訳概要

・これらの子供たちは実用的な知的(抽象的な知的を意味)では平均を下回っている(弱気の程度を含む)
・一方、実用的な有用性とキャラクターの価値を含む本能では、相対的な意味ではるかに優れている
・これらのケースは、遺伝性疾患のある子孫の予防法がここで施行されると重要
・そのような場合に医師が決定を下さなければならない場合、質問票または情報指数のみに基づいてそうすることは許可されない。むしろ、主に子供の性格に関する知識に基づいて、抽象的知能に加えて子供のスキルのすべてを考慮に入れるべき

ケーススタディに用いられたうちの一人の少年は、後にイギリスのローナ・ウィング医師によって再発見され「アスペルガー症候群」の命名のきっかけになった有名な論文(1944年「小児期の″自閉的な精神病者”」)にも、1人の症例としても書かれています。

ちなみにもう一人は「年齢よりはるかに知的」だが精神的・肉体的な「過敏症」の症例で、現在の自閉症とはリンクできないタイプです。アスペルガー医師も1944年の論文では含めませんでした。

アスペルガー医師はナチス政権下で10以上の論文を発表していますが、現在注目されているのはこの論文と1944年に発表された論文(「37歳:2つめの博士研究論文を提出」項目参照)の2つです。

安楽死計画に関わった頃

33歳:精神障害者の安楽死計画開始

それから1年も経たない1939年、ナチスからの指示により精神障害者や障害児の安楽死計画(T4計画)が始まっていきました。ナチスの優生学に準拠した人種衛生方針に関して、最も重要な2つの例は、「強制不妊」プログラムと「安楽死」に該当する精神障害のある子どもの強制報告でした。

もうオーストリアでの精神医学理念も、患者の権利や倫理的な現代医学の原則からほど遠いものになってしまいました。

アスペルガー医師はNSDAPのメンバーにはなりませんでしたが、国家社会主義福祉組織(NSV)などナチ党の多くの主要組織に参加しました。それらはオーストリアで医師を続けたい場合、不可避なものでした。

「安楽死」による殺害は公式には秘密でした。該当する子どもの親すらをもだましていたのです。

何人かの子どもを「安楽死」させるための施設へ送ったアスペルガー医師は、子どもたちを待ち受ける運命を知っていたとされています。

ナチス政権下での立ち位置は?

この頃、アスペルガー医師が障害児に対してナチス政権下でどのような立場をとっていたかは、資料の少なさから現在も多くの歴史家の間で議論が続けられています。

子どもを守った派

例えば先述のシルバーマンの本の中では、アスペルガー医師はナチス政権から自分のクリニックに通う子供たちを守るため活動したヒーローのように扱っています。

ナチスの優生思想に対し、一部自閉症児の高い知性と可能性を訴えクリニックの子どもたちを守ったとも言われています。

優生学を優先した派

一方、ヘルヴィヒ・チェコ(Herwig Czech)氏は2018年の研究で、アスペルガーは重度の知的障害を持つ子供たちにとって最後の手段として殺害を容認していたに違いないと結論づけています。

具体的には下記のように述べています。

Asperger managed to accommodate himself to the Nazi regime and was rewarded for his affirmations of loyalty with career opportunities. He joined several organizations affiliated with the NSDAP (although not the Nazi party itself), publicly legitimized race hygiene policies including forced sterilizations and, on several occasions, actively cooperated with the child ‘euthanasia’ program. The language he employed to diagnose his patients was often remarkably harsh (even in comparison with assessments written by the staff at Vienna’s notorious Spiegelgrund ‘euthanasia’ institution), belying the notion that he tried to protect the children under his care by embellishing their diagnoses.

Czech, H. Hans Asperger, National Socialism, and “race hygiene” in Nazi-era Vienna. Molecular Autism 9, 29 (2018).
↑ 和訳概要

・アスペルガー医師はキャリアの機会を得るための忠誠の確認に報われ、なんとかナチ政権下に適応した
・彼はNSDAP (ナチ党自体ではないが)の加盟しているいくつかの組織に参加し、強制不妊手術を含む公的に合法化された人種衛生政策、およびいくつかの機会に子どもの「安楽死」計画に積極的に協力した
・彼の診断は、時に安楽死施設の職員より厳しい言葉を使用していた

In Wirklichkeit bezogen sich Aspergers positive Bemerkungen (seine angebliche Kampagne) immer nur explizit auf abnorme oder schwierige Kinder, nie auf Kinder mit schweren geistigen Behinderungen, auf die das Kindereuthanasie-Programm abzielte, das am Spiegelgrund umgesetzt wurde.

↑ 和訳概要

実際、アスペルガーの積極的な発言(彼の主張されたキャンペーン)は常に異常または困難な子供にのみ明示的に言及し、シュピーゲルグルントで実施された児童安楽死プログラムの対象となった重度の知的障害を持つ子供には決して言及しなかった

さらに、ジュディ・サーシャ・ルビンシュタイン(Judy Sasha Rubinsztein)氏は2019年の書籍で下記のように述べています。

A poverty of Gemut was a justification for euthanasia in the Nazi era. Asperger did protect some autistic children whom he believed could be educated, but was dismissive of those who were more disabled. Asperger sent at least 37 of his patients to Spiegelgrund, a children’s clinic in Vienna, on the grounds that they lacked Gemut or were ineducable.

Rubinsztein, J. (2019). Asperger’s Children: The Origins of Autism in Nazi Vienna By Edith Sheffer. W.W. Norton and Company. 2018. 320 pp. £18.99 (hb). ISBN 9780393609646. The British Journal of Psychiatry, 214(3), 176-176. DOI : 10.1192/bjp.2019.15
↑ 和訳概要

・心(Gemut)の貧困は、ナチス時代の安楽死の正当化される理由だった
・アスペルガーは、治癒教育によって社会適応できると判断した自閉症の子供たちは保護した
・ナチス政権下で安楽死が正当化されていた重度の知的障害児については、少なくとも37人、シュピーゲルグルントへ(安楽死の運命を知っている上で)送った

他の研究

他の研究では、アスペルガー医師は多くの子どもたちを安楽死の運命から救おうとしていた、という印象が多いです。

アスペルガー医師は、「安楽死」に該当する障害児の報告を拒否したためゲシュタポ(ドイツ警察秘密警察部門)に2度も逮捕されそうだったところをNSDAPのハンバーガー医師に救われたと語っています。

It is totally inhuman?as we saw with dreadful consequences?when people accept the concept of a worthless life. […]As I was never willing to accept this concept?in other words, to notify the [Public] Health Office of the mentally deficient?
this was a truly dangerous situation for me.I must give great credit to my mentor Hamburger, because although he was a convinced National Socialist,he saved me twice from the Gestapo with strong, personal commitment.He knew my attitude but he protected me with his whole being, and for that I have the greatest appreciation

BMC :Hans Asperger, National Socialism, and “race hygiene” in Nazi-era Vienna
↑ 和訳概要

・人々が価値のない人生の概念を受け入れるとき、それは(私たちが恐ろしい結果で見たように)完全に非人道的
・私はこの概念を受け入れるつもりはなかったので(言い換えれば、保健所に精神的欠陥を通知すること)これは私にとって本当に危険な状況だった
・ハンバーガー医師は国民社会主義者だったが、彼は強力で個人的な公約でゲシュタポから私を2度救った
・彼は私の態度を知っていましたが、彼は私を守ってくれましたそのため私は彼の存在自体に非常に感謝しています

アスペルガー医師は1960年代のスピーチで、ハンバーガー医師について、彼がNSDAPだったことや反科学的な行為を行ったことなどには触れずにただ賞賛するばかりでした。

結論

どちらにしてもナチス政権下でNSDAPのハンバーガー医師に守ってもらいながら、うまく立ち回ってキャリアを積み上げられたことは事実です。

そしてこれらの議論から、アスペルガー医師の過去を事前に調査していなかったローナ・ウィング医師によりつけられた「アスペルガー症候群(Asperger’s syndrome)」というアスペルガー医師の名前が付いた診断名を使用することに問題を呈する専門家も出てきました。

資料の少なさからアスペルガー医師の行動は今となっては分かりません。

いずれにしても1990年代に国際的な診断基準(ICD-10(1990年)、DMS-Ⅳ(1994年))に追加された「アスペルガー症候群(Asperger’s syndrome)」は、いくつかの特性が1つの包括的な用語である自閉症スペクトラム障害にまとめられたことをきっかけに、DMS-5(2013年)では削除され、ICD-11(2022年正式発効予定)でもそうなります。

34歳:ウィーン公衆衛生局にも勤務

1940年10月、ウィーン大学の仕事の他に、「異常な子供たち」の医療専門家として、ウィーンの公衆衛生局の非常勤の職をさらに取得しました。

そこでアスペルガー医師は、遺伝性疾患について人々をスクリーニングし、強制不妊プログラムを推進しました。

ハンバーガー医師によれば、アスペルガー医師の専門家としての意見は、青少年福祉施設と青少年裁判所だけでなく、国家社会主義福祉組織(NSV)によっても「最高権威」と見なされていました。

1941年、アスペルガー医師はウィーンの特別学校制度の医学顧問としての役割に加わるよう求められました。

37歳:2つめの博士研究論文を提出(1944年発表の有名な論文)

1943年に2つ目の博士論文「小児期の?自閉的な精神病者”」(ドイツ語でDie ?Autistischen Psychopathen” im Kindesalter)をウィーン大学に提出しました。これが翌年1944年に発表され、1981年ににローナ・ウィング医師によって再注目された論文です。

  • 1944年に発表されたアスペルガー医師の有名な論文
    • 論文名:「小児期の?自閉的な精神病者”」(ドイツ語で Die ?Autistischen Psychopathen” im Kindesalter)
    • 「共感の欠如、友情を築けない、一方的な会話、特定の興味への強い吸収、不器用な動作」を特徴としていました。
    • 参考:Hans Asperger ,1944, “Die ?Autistischen Psychopathen” im Kindesalter", Archiv fur Psychiatrie und Nervenkrankheiten. 117 (1): 132?135.
POINT

これが、1943年にカナー医師が自閉症を初めて定義した論文よりも今の自閉スペクトラム症により近い特性で自閉症を報告し、かつ、アスペルガー症候群の命名の由来となったアスペルガー医師の論文です。

37歳:戦争に派遣される

アスペルガー医師は9か月の訓練の後、1943年にドイツ国防軍第392歩兵師団とともに軍医としてクロアチアに派遣されました。

派遣された先は、人質となっていた民間人が大量殺害されるなど数万人の死者が出た戦いでした。

その戦争で数ヶ月間捕虜となった後、ウィーンに帰還しました。

彼は1974年のインタビューでもその経験を、「I would not like to miss any of these experiences(これらの経験を見逃したくない)」と語っており、1952年に最初に発行した彼の教科書でもその体験につて触れていました。参考:BMC : Hans Asperger, National Socialism, and “race hygiene” in Nazi-era Vienna

戦後と晩年について

NSDAPのメンバーでなかったアスペルガー医師は、ハンバーガー医師とは違い圧力を受けることはなく、順調にキャリを積んでいきました。

39歳:ウィーン大学の講師に

第二次世界大戦ナチス・ドイツ敗戦後の1945年、アスペルガーはウィーン大学で講師を務めました。

1946年から1949年には、ウィーン大学小児クリニックの院長に就任しました。

51歳:インスブルックの児童クリニックへ

1957年にインスブルック大学小児病院へ移り、1962年まで小児科教授として勤めました。

56歳~71歳:ウィーン大学小児クリニック院長に就任

  • 1962年にはウィーン大学へ戻り、ウィーン小児科クリニックの教授とて、また院長として1977年まで勤めました。
  • 1964年からは、オーストリアの教育者であるヘルマン・グマイナー(Hermann Gmeiner)氏が第二次世界大戦後に孤児や両親に育ててもらえない子どもたちを救うためにを1950年初頭からオーストリアで作り始めたSOS-Kinderdorf(SOS子どもの村)にて、医療ステーション業務にも加わりました。
ヘルマングマイナー氏
SOS-Kinderdorf創設者のヘルマン・グマイナー(Hermann Gmeiner)氏 画像はSOS子どもの村JAPANより
  • 1967年には、1652年に設立された科学アカデミー レオポルディーナ(Nationalen Akademie der Wissenschaften Leopoldina)のメンバー(科学のほぼすべての分野から(現在)約1,600人のメンバーが参加する学術社会。メンバーは海外でドイツの科学を代表し、政治家や市民に専門的な助言するという役割がある)に選出され、ドイツを代表する科学者の一人として認められました。
  • 1971年にはウィーン市からウィーンの金メダルを授与されています。
  • 1972年にはミュンヘン大学から最高の名誉である医科学名誉博士号の称号を授与されました
画像はPinterestより

アスペルガー医師は亡くなる6日前にまで講義を行い、74歳の1980年10月にその生涯を終えました。参考:Whonamedit? “Hans Asperger

まとめ

ハンス・アスペルガー医師は一人で現代のアスペルガー症候群と言われる自閉症を発見したのではなく、ウィーン大学小児クリニックの治癒教育部門でその基盤が築かれていました。詳しい内容は下記の「参考」項目で詳しく説明しています。

アスペルガー医師のバックグラウンドを知ることで、ウィーン大学小児クリニックの治癒教育部門を創設し、そこで働いていた多くスタッフの存在が、アスペルガー医師に大きな影響を与えていること、その中の一人のフランクル医師によって、オーストリアとは遠く離れたアメリカのカナー医師にその病院での研究内容が伝わったことも分かりました。

それらの医師の詳細については別ページをご覧ください。

読んで下さってありがとうございました!